白倉伸一郎『ヒーローと正義』を徹底検証する0

いわゆる平成ライダーシリーズ。アギト、龍騎、555、30話以降の響鬼、そして現在のカブトを担当される白倉氏は、いっぱしの思想と文才をお持ち、と聞きました。
そんな氏が、555終了後、執筆された本が↓です。

ヒーローと正義 (寺子屋新書)

ヒーローと正義 (寺子屋新書)

「子どもの未来社」? 「寺子屋新書」? 初めて聞く名前ですね。
そもそも出版社なら、日本語くらい正しく使ってください。「子供」が正しい日本語です。
……とか思いつつ、なかなか興味深く、読ませて頂いたわけですが。
ゴー宣読者として、おジャ魔女どれみファンとして、セイザーXファンとして、前期響鬼ファンとしては、承服しかねる面もあったりなかったり。
それを、ひとつひとつ検証していきたいと思いました。


……できるのか?(笑)
以下、相当長いですよーお気をつけください。
あ、でも、著書の中でクウガを扱った部分の検証(→徹底検証する2)だけは、是非読んで頂きたかったり。
要するに白倉氏、著書内でクウガ=おそらく高寺成紀プロデューサーを批判されてるわけですが、その手法について主張したいことがいっぱいありました。
白倉ファンの方々には、是非知っていただきたい疑念が。ええ。

序.白倉氏の発言を読む

「仮面ライダー555」 =555補完ファイル= (ファンタスティックコレクション)

「仮面ライダー555」 =555補完ファイル= (ファンタスティックコレクション)

以下、↑内の、井上敏樹氏と白倉伸一郎氏の対談から、長々と引用します。
実に興味深い、刺激的な対談だったもので。

井上:もともと二元論を信用してないんだよ、俺。


――ヒーロー作品を観て育って、「うそだ!」と思っておられた?


井上:だからだよ! 胡散臭いのはすぐわかるんだよね、匂いで(笑)。これはどうも嘘っぽいぞ、と。
その胡散臭いものをね、受け入れちゃいかんというのは、脚本家の良心だと思うのよ。物語を勧善懲悪、二元論にしちゃってさ、テーマを前面に出してね、「友情はスバラシイ」とか、そういうのを謳うヤツは胡散臭いじゃない。ガキの頃からそう思ってたし。


白倉:思った思った。思ったっていうか、成立しない、成立しちゃいけないって感じたの。

ここだけ抜き出すと、「もうヒーローも友情もないんだよ……」とか言ってるやさぐるまさんやさぐれた中学生みたいな発言ですが、勿論それは早計です。
ってか、アバレンジャーの《アバレキラー》仲代先生を思い出しました(笑)。いかにも戦隊ものの、ベタな悪役が言いそうなことです。で、仲代先生のように、そのうち味方になるわけだ。(笑)
けど少なくとも、子供番組を創る人間が言っていい言葉かどうか。「555補完ファイル」は、コアなファン向けのムックなのですが、もし何もわからない子供にこの発言が直接伝わったら……ちょっと怖いです。
が、それを敢えて口にする、氏らにも主張はあって。

井上:だいたい番組っていうのは答えを出しちゃいけないと思うんだよ。


――それは、見ている側に参加する余地を与える、ということですか?


井上:違う。答えはいつも平凡だから。もっと言えば、平凡な答えしか受け入れられない世の中だから。
でも、なんでいまさら「友情は美しい」とか言わなきゃならないの? そんなのはみんな一般論として持ってるわけじゃない? なのに、わざわざテレビで言う必要はないわけで。


――それは、見ている人が安心したいからじゃないかと……


白倉:そこがすでにおかしいでしょ。平凡な答えで安心するっていうのは、もともとそういう答えを期待しているってことで、それはすでに観ている側の中で答えが出てるのよ。じゃあ別に観なくていいじゃない? と、そういう話。


井上:わかりきったことを描いてもしょうがないって話なんだよな。


白倉:それは確認するためだけにテレビ番組を観てるってことで、そういう番組は他にもあるので、そっちを見てもよろしい、と。

その一般論が、平凡な答えが、どんどん崩れている。
共同体が崩壊し、そこで伝わる常識もどんどん壊れている。
それは前首相の進めた構造改革にも原因があるし、大マスコミの世論誘導もあるし、大衆自身の堕落もあるし。
「わかりきったこと」が壊れ始めた。それが、今の世の中だと思うわけですが。


もちろん白倉氏らは、友情をブッ壊したいわけじゃあない。
氏らが固い友情で結ばれている、という話もあります。例えば、後期響鬼の脚本を依頼した白倉氏に、多忙の井上氏が「お前の頼みは聞く」と承諾した、そうな。
だったら、そんな貴方がたの友情話をそのまま書けば、とか思っちゃいますが。(笑)


……余談。これを聞いて思い出したのが、『おねがいマイメロディ』1期終盤。クロミが仲間たちの友情パワーを借りて、封印されたメロディバイオリンを盗み出す話です。
涙涙の展開で終わるも、その後このメロディバイオリンのせいで、人間界とマリーランドは未曾有の危機に陥る。
悪魔にも友情はある、でも悪魔なのには変わりない。まさに「友情は胡散臭い」、二元論を打ち崩す名話でした。
そう思いませんか、白倉・井上ファンの方々。

白倉:(前略)ただ、どうせ創るのであれば、すでにあるものを創っても仕方ないし。あえて偉そうに言うと、俺らがやることじゃない。


――では、もしそれがなかったら?


白倉:なかったら創るよ。


井上:なかったら創るよな? 絶対やる! 「友情はすばらしいんだよ」と。そんなこともわかんねぇのか? とか言って(笑)。


白倉:でも、今、すでにそういう番組があって、あるから『555』みたいな番組を創ることができるわけで、決してそれらを駆逐したいとか、間違ってるとか言ってるわけじゃない。そこは誤解しないでほしいかな。

見teeeeeeeeeeee!!!!(笑)
白倉氏の平成ライダーで「ガチ友情もの」ってすっごく新鮮な気がするので、是非やって頂きたい感じです。
てか、それが今の『カブト』における、天道&加賀美な気がします。ひねくれてるけど、王道な「天才&凡人」の友情ですよこの二人。最近では加賀美とぼっちゃまも、かな?


とにかく白倉氏は、スーパー戦隊セイザーXリュウケンドーのような「友情はすばらしい」的番組にパラサイトしたのが自分の番組、とは認めているようです。
王道があるからこそ、邪道がある。そこに価値を見出せる。


そして白倉氏らは、ここから興味深いことを主張されています。

井上:でも、テーマなんてのは……何度言ってもみんなわかってくれないんだけど、テーマを描いちゃいかんのよ、番組ってのは。人間を描かなきゃ、人間を! ただ 日本人にはテーマを描いたら高尚だ、とかあるんだよな。でも、やっぱり人間を描くから実ができるんだよ。


――とは言え、テーマというか、お題目があるとやっぱり人は安心するもので。そういう意味で『555』はなかなか安心させてもらえない作品でした。


白倉:だから、まずは番組をお話として観てるからいかんのであって、そこを越えたいんだけどなぁ……。


――「お話」として受け止められたくないのだとしたら、ニュースをやるしかないのでは?


白倉:ニュースだってお話なんだよ、本当は。だって5W1Hじゃない? 誰がどこで何をして、いつどうなった、みたいな。
結局、みんな結論が出なきゃ納得しないわけで。めでたしめでたしとか何らかの結果を求めるわけだから。でも、そうじゃなくて「あなたの結論て何なのよ?」と問いたい。


――だから『555』ではそこがみごとに出なかった、というか、徹底して出さなかったという……。


白倉:だって、他人に対して結論を求め、そうやって満足していく人生って何さ、って思わない?


――自分で出せない人が多いとか。


白倉:それはそう。自分自身に結論は出せないでしょ、死ぬまでさ。死んでもたぶん出せない。じゃあ、なんでそれを他人に求めるの? と。

自分の記憶が確かなら、白倉氏は555始まってすぐの頃「今回のテーマは夢」とかインタビューに答えていたような気がするのですが、記憶が曖昧なので置いておきます。


とにかく。
描きたいものはテーマじゃない、人間だ、と。


ならば、我々は問わねばなりません。
その「人間」とは何か? と。



こちらの本には、白倉氏が一番最初に書かれた555の企画書も掲載されてまして。
「“ヒーローもの”の大きな問題点」を2点挙げられています。


第一点。
「正義が悪を倒す」という図式が、大きな矛盾だと。
正義は常に「わたしたち」の側にあり、悪は常に「あいつら」の向こう側にある。
だが、9・11後、勧善懲悪という夢は、現実には悪しかもたらさないことが証明された。
「わたしたち」ではないものを、「あいつら」=悪と断じることは許されない。


第二点。
ヒーローとして変身することは、日常からの脱却、逃走であるべきではないと。
“変身”はお祭りであり、日常からの脱皮であり、抑圧からの開放……という、日本人の悪い精神性を体現している。
お祭りというハレの日があるからこそ、ケである日常生活が耐え忍べる。
しかし、これからの人生を生きる子供たちに、私たち大人が「日常=つまらないもの」、「日常からの脱却=夢」と植えつけてはならない。


……まずは、第二点から考察していきましょう。
一人一人の個性とやらを重視する昨今の風潮において、こちらは正当性があると思います。
面白いのは、この「日常そのものに希望を持つ」というテーゼが、まさに前期響鬼が見せていたものだということ。
《鬼》たちは変身ヒーローでありながら、それを生業とするプロフェッショナルでもあった。
仕事上の壁にぶつかったら、ヒビキさんは「鍛えたりなきゃ鍛えるだけ」と自己鍛錬し、壁を越えていく。
怪我を負ったイブキさんも、ヒビキさんの助けを待たず。音撃管・烈風のないのを承知で、持てる力を最大限に発揮して555のラストバトルの舞台水中のオオナマズに挑んでいった。
それこそ、プロフェッショナルとしてのカッコよさ。職業=日常を生きることに希望を抱かせるに足るものでした。
……と、前期響鬼ファンの自分は思うのですが。後期響鬼で《鬼》をヒーローとしか扱わなかった白倉氏には、そう見えなかったようです。魔化魍にやられて、あっさりたちばなに帰るヒビキさんたちの姿に、プロの意識はどこにもないわけですが。


それはともかくとして。
問題は第一点。
自らを正義と信じるという、その「わたしたち」とは何ですか? どんな人々のことですか? と。
地球人全体のことか。外国人のことか。日本人のことか。
各国それぞれの歴史を持ち、そこから錬成された「国民性」は、決して「地球人」「人間=ホモ・サピエンス」と一括りにできるものではない。


白倉氏らが描きたい「人間」とは何か?
白倉氏が否定したい「わたしたち」とは何か?
それを知らねば、他人に拠らない自分だけの「結論」は出せない。


それを探すために。
氏の解釈する、「ヒーロー」の「正義」を読み解きたいと思います。
ドシロウトは、ドシロウトなりに。