白倉伸一郎『ヒーローと正義』を徹底検証する3

3.白倉的<わたしたち>の正体〜アメリカの<we>と日本の<わたしたち>

ヒーローと正義 (寺子屋新書)

ヒーローと正義 (寺子屋新書)

……とまぁ、白倉氏の偏狭的な視野を、トコトン叩いてみたわけですが。
それでもわたしたちは、白倉氏の創る番組に惹かれてしまいます。てか、プロデューサーなんだから、そういうのを創って当たり前。
作者の思想と、作品の出来は別。これが真理でしょう、問題はその作品に、作者の思想がモロに出る場合なんですが……


あれだけ盛大にグダグダになった『555』。
でも自分は、そのの主人公・乾巧を嫌いだとは思えません。
ぶっきらぼうで、素直でない性格。これはまさに日本人的な――古きよき日本のオヤジ的キャラです。ある種のツンデレですね。(笑)
そんな彼が《555》に変身し、癖のありすぎる周囲に人物に苦悩しながらも、戦っていく。
今なお、半田健人さんは自分が555だったことを誇りに思い。子供たちには今でも声をかけられるそうです。まさにヒーロー。


龍騎』の城戸真司。彼もまた、日本人的なお人よしで、苦労人でした。
日常では編集長にシゴかれ、蓮に借金し。
非日常のライダーバトルでは、分かり合おうとしては失敗し、それでも分かり合おうとし……
最後の最後で、彼のライダーとしての正義を見つけました。
自分はあの最終回を許容してます。何度ライダーバトルを繰り返しても、真司は諦めなかったんでしょう、きっと。それに神崎が根負けして、全部リセットしたって可能性も、なくはないんじゃないですか?


『アギト』は……未見でーす。(汗)


そして、現在の『カブト』。
天の道を往き、総てを司る――天道総司
彼こそ、日本人の文化の結晶たる「和食」を得手とし、歴史の象徴たる「おばあちゃん」を敬愛し。家族である「妹」を守る。日本人のヒーローです。
……だからこそ、自分は彼に一言言いたい。樹花と一緒に朝食食べてあげてくださいな、もっともっと美味しく食べられるはずだよ。樹花も喜ぶって。
そうそう。樹花が怪我して帰ってきて、天道に顔を合わそうとしなかった時。異変に気づいて「ちょっとこっち来なさい」と呼び止めた彼は、兄=保護者として接してるんだなって感心しましたよ。
これが、家庭として当然の機能です。主夫としてなら、おそらく模範的日本人ですよ。封建主義的な男女の性差についてはとりあえず置いとけ、天道だから仕方ない!(笑)
最近は迷走してる気もしますが、自分は天道&加賀美が大好きです。
これからも面白い番組を作ってください。応援してます。マジで。



果てさて。
555龍騎カブトを紹介する上で、自分が繰り返した言葉が「日本人」です。
自分は、ここにこそ<わたしたち>と<あいつら>が分かり合うためのキーワードが隠されている、と思ってます。
だからこそ、白倉氏の創るものにも魅力を感じるのだと。
そんな「日本人」らしさを証明するかのような主張が、『ヒーローと正義』でもされています。


『ヒーローと正義』の最後の章。
第6章「正義とジャスティス」にて。
白倉氏は、日本的「正義」と、アメリカ的「ジャスティス」が異質のもの、という分析をされています。
ここの部分は全面的に賛成なので、喜び勇んで紹介していきましょう。


まず、「1 <現代正義論>の主張」。
ジョン・ロールズが執筆し、ベストセラーになった『A Theory of Justice』(正義論)を話題に上げます。
しかしこの著は、邦訳が2004年現在出版されてないとか。
……ん? wikiのジョン・ロールズの項目によれば、

とあるのですが、これとは違うのでしょうか、「監訳」って邦訳と微妙に違うの……?
この辺詳しくないので以下略〜、野暮だったらマジごめんなさい。


置いといて、『ヒーローと正義』から引用開始。

原書に挑戦するガッツのないわたしたちは、ロールズが何を主張したかを、だれかの引用や解説で間接的に聞かされることになる。そのなかでは、彼はもっぱら《善を社会的基本財と位置づけ、その公正な再分配をすることが、正義の実践である》と主張したとされる。
善の総量を社会の共有資源とみなし、平等に分配しようというのである。
このように聞かされると、手続き論としてはともかく、その前提そのものに違和感を覚えてしまうわたしたちがいる。
善は、財である――とは、あまりにも即物的なように聞こえる。
なんでも経済活動にむすびつけたがるアメリカ人たちは、ついに「善」まで経済面でとりあつかいはじめたのだろうか。(以下略)

そう、<わたしたち>日本人にとって、<あいつら>アメリカ人の感覚は違うのです。
だから排除したがるか、ってのは別の話。
違いは違いとして、理解しておかねばなりません。


また、この主著に先立つロールズの小論「公正としての正義」でも、「一見したところでは、正義の概念と公正の概念は同じもの」だけれど、実際は公正から正義が導き出されると主張している、そうな。
公正の実践こそ、正義の実践――それが、ロールズの正義論だそうです。
でも、<わたしたち>日本人が「一見したところでは」、正義と公正が同じものとは思えない。むしろ正義のほうが上位概念と思ってしまう。

しかし、「善は財である」と日本語でいわれると、首をかしげてしまうわたしたちも、
「good は goods である」
こう聞かされるなら、事情はまるで変わってくる。
ロールズが往っているのは、「goods は good の複数形」ていどのことにすぎないのである。じじつ、ロールズは個人の善を「primary good」、社会の善を「primary goods」と呼んでいる。
ロールズは、経済学の成果を大胆に哲学に導入したかのようにいわれるけれども、わたしたちが哲学と経済学をはっきり区別するのに対し、英語圏の人たちにとっては、good を扱う倫理学と goods をあつかう経済学は、もともと似たものどうしなのではないだろうか。すでに「goods」という経済用語自体に、それが「good なものである」という思想が内包されているのである。

へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜……(←もう流行語として調味期限切れじゃないか?)

good が goods である(善が財である)ところまではよしとして、その財を分配することが正義になるのはなぜだろう。
「justice」という言葉を、ケンブリッジ大学出版局の辞書(Cambridge Dictionaries Online)で引いてみると、第一義として
「fairness in the way people are dealt with」(=人々が deal される方法における公正さ)
とある。

……助けてベッキー(『ぱにぽに』)!
英語は苦手です、今も昔も。

つづいて「deal」を引くなら、その第一義は「share out」(=分配)である。
つまり、こういうことである。
ロールズが主張しているといわれるような、「正義は公正」「その実践は分配」というのは、辞書的な語義そのままでしかない。
ロールズは、正義は公正であるとし、その実践として、善という基本財の公正な分配を主張した」というような解説は、半分は正しいけれども、半分はまちがっている。それはアメリカ人としての共通理解であって、ロールズ個人の独創ではない。だれかがそう主張しているとしても、それはロールズではなく「英語」という言語の主張なのである。
そうした共通理解を踏まえて、さらにその先にロールズが展開していくのが彼の<正義論>であるし、それに対するリアクションが<現代正義論>というムーブメントなのだけれども、わたしたちはその前提自体を共有していない。
かれらが日本語の意味する<正義>について何かを述べていると思い込み、かれらの論を<正義論>として聞こうとするのは、勘違いなのかもしれない。
わたしたちはヒーローに正義を求め、アメリカ人もヒーローにジャスティスを求める。けれども、わたしたちとアメリカ人は、まるで異なるものを見つめている。

言語や思想といった文化。
それぞれ違うのは、当たり前のことです。
わかってはいても、こう指摘されるとハッとします。


「2 <正義>が問いかけるもの」にて。
白倉氏は、ヒーローの正義について話を戻し。

映画『スパイダーマン』(二〇〇二)では、主人公が悪漢に、「ガールフレンドと子どもたち、どっちしか助けられないが、どうする?」というパラドックスを突きつけられる。

だから子供(略)


「この悪漢の突きつけた二者択一は、人間がヒーローになるための通過儀礼」と、白倉氏は分析します。
二者択一問題に答えを出せないのは、人格を崩壊させることであり、justice に反すること。そして答えを出せた者こそが、<人格の統合性>を保持したヒーローだと。

「正義」のために答えが出せないことはありうる。しかし、justice が答えを出さないことはありえない。いかなる事情があっても、判決を出せない裁判官は、裁判官として失格であるように。
そう、justice とは裁判なのである。
原告と被告の二者択一をする裁判官も「justice」と呼ばれるし、その justice が justice をおこなう裁判所も「justice」と呼ばれる。

次に挙げたヒーローは、『デアデビル』(二〇〇三)。
ここでも、「Justice」という言葉に「正義の裁きだ」と字幕が振られていたそうです。

主人公、デアデビルことマット・マードックは盲目*1の弁護士だが、世界各国の法廷には、正義の女神(Justice)の像やレリーフが、そのシンボルとして置かれている。彼女は左手に天秤を、右手に剣を持ち、目隠しをしている。目隠しをしているのは、あらゆる先入観をなくし、天秤という客観的な基準にもとづいて justice を行なうためである。

……スーパー弁護士こと《仮面ライダーゾルダ》は、ごちゃごちゃした戦いを嫌って、遠くからMAP兵器をブッ放つお人でしたが。
ついつい子供の手術費用を出しちゃう辺り、公正でも客観的でもないですね。やっぱり北岡先生は、人間の欲望=清濁併せ持つ感情が大好きな人だ……

ジャスティスさんの像は、もちろん日本の法廷にもある。日本の最高裁にいる彼女は、なぜか目隠しをしていない。このことが、「まさに日本の司法の堕落ぶりを象徴している」とヤリ玉にあげる人もいるほど、ジャスティスにとって目隠しは重要な属性である。
彼女が下す justice とは、大岡裁きのようにただ判決をいいわたして終わるものではない。彼女の右手には剣がにぎられている。justice をくだすというのは、この剣をふりおろすことである。
デアデビルが望みを聞かれて「Justice」と答えたのは、悪漢に「キミも正義にめざめてくれ……」などと願ったわけではない。彼女の剣がふりおろされることを望んだのだ。「正義の裁き」とは、じつに的を得た訳である。
そしてデアデビルは、悪漢と、そこにいあわせた仲間を皆殺しにする。
justice とは、そういう概念である。

もちろん白倉氏特有の解釈が入っている可能性があるため、警戒はしますが。
大体合ってる気がしてしまうのは、国家としてのアメリカの性質を考えれば、言うまでもありませんね。


そして、<わたしたち>日本人の<正義>とは何か。
白倉氏は続けます。

広辞苑(第五版)で引くと、その第一義は「正しいすじみち。人がふみ行なうべき正しい道」とある。
「justice」が people や country に関係し、かならず社会性をともなうのに対して、「正義」は自己完結しうる、個人性の高い概念だといえる。
justice は社会の問題だが、正義は、わたしたち自身の問題なのである。
ヒーローはたしかに人を裁き、剣をふるって罰しもする。
しかし、「justice」が、だれかよその人を裁くために使う言葉であるのに対して、「正義」は自分自身を指す。ジャスティスの剣が、つねに他人に対してふるわれるのに対して、正義の剣は、自分自身にも向けられている。

……ここで思い出してください。
少年怪人ゴ・ジャラジ・ダに、正義の剣をふるい。
最後サムズアップできなかった、仮面ライダークウガのことを。
彼は、他人に「justice」を行なったと同時に、自分自身の「正義」をも問うたのです。
ちゃんとクウガを観ていれば、ここでこそあの痛烈なエピソードは引用されるはずなのに。


白倉氏は、洋の東西を問わず、ヒーローは両義的と指摘し。双方を比較します。
まずは西洋、『スーパーマンII 冒険篇』や『ブレイド』を挙げ。ヒーローであることを選択しヒロイズムをかきたてていく、と。

しかし、日本のヒーローたちのヒロイズムは、どちらかというと自己否定的な結果に終わる。ウルトラマンたちは、自分が宇宙人であるがゆえに、地球を去らなければならない。科学技術の成果としてヒーローになった仮面ライダー鉄腕アトムは、同じく科学技術の成果であるミサイルとともに自爆して果てる。マジンガーZ宇宙戦艦ヤマトガンダムといったメカは破壊される。
『スーパーマンII』で恋を捨てヒーローを選び、事件を解決したスーパーマンは、凡人だった時分に自分をコケにしてくれた酒場の荒くれ男どもに、意趣返しをしにいく。ヒーローという剣を持つことを最大限に謳歌して、ハッピーエンドとなる。
しかし、日本のヒーローにとってのハッピーエンドは、むしろヒーローという剣を捨てることにあるらしい。

なるほど。ガンダムですか。
完全平和を実現した『新機動戦記ガンダムW 〜Endless Waltz』のラストでは、ゼロカスタムは全壊。他のガンダムも自爆しましたね。リリーナ様も、平和とは誰かに与えられるものじゃない、自分たちで守っていくものだ、っておっしゃいました。強大な力を否定したからこそ、ヒイロやデュオたちは《ガンダム》を捨て、ヒーローであることを放棄したのです。
他のガンダムもそんな感じですか、半壊や全壊。Gガンダムは置いといて。
そして現在の『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の最終回でも、主人公キラ・ヤマトストライクフリーダムガンダムと共に帰還、オーブの中将に……アレェ!?


かくして、キラが東洋のヒーローでないことが証明されました(微違)。

正義と justice のあいだには、大きな溝が横たわっている。
正義の女神ジャスティスは、目隠しをしている。
予断を禁じ、公平な裁決をくだすためだが、けれどもその目隠しは、同時に、彼女自身の隠れみのにもなる。
彼女は、人を平気で天秤に乗せ、平気で剣をふりおろすことができる。彼女は自分の剣が、どんな人の命を奪うことになるのか見ないままでいられる。剣をふりおろす以外の選択肢がないのがどうか、自分が剣をふるう資格を本当に持っているのかどうか、考えないままでいられる。
しかし、わが国の<正義>の女神は、目隠しをしない。
彼女は、だれを天秤に乗せ、だれに対して剣をふるわなければならないのか、その目をしっかり開いて、一部始終を見届けなければならない――そうする自分自身の顔を、世間に対してさらしものにしながら。
わたしたち自身が<正義>でありうるかどうかを、正義という言葉自体が問いかけている。

自分にはもう、これを読んで『クウガ』しか思い出せません。
先の4話しか実際に観てはいないけれど、響鬼騒動でイヤというほどクウガの評判は聞きました。
ヒーローらしくない、こんなの仮面ライダーじゃない……
でも『クウガ』は、警察機関にも「自分自身の顔を、世間に対してさらしものにしながら」、「だれに対して剣をふるわなければならないのか、その目をしっかり開いて、一部始終を見届け」続けたんですね。
「目隠し」なんてせずに、自分が正義かどうかずっと考え続けて。


いえ、きっとクウガだけじゃないんでしょう。
本著では取り上げられなかったウルトラセブン』第42話「ノンマルトの使者」では、「ノンマルトこそ地球の先住民、人間こそ地球の侵略者では?」という問いかけがされたといいます。
白倉氏が触れなかったのが不思議なくらい有名な話らしいので、自分もレンタルビデオで実際に見てみました。
レビューは簡単にしておきます。タイトルでGoogle検索すれば、幾らでも出て来ます故。


……噂に違わぬ、衝撃的な話でした。隊員の誰もが人間中心に考えている。まさに、<わたしたち>以外の存在をすべて排除しつくそうしていました。無論、それに疑問を覚えるダンやアンヌという存在もいたのですが。
「近頃の子供ならやりかねん」なんて言葉が隊員から出たりもして、ホント、何で白倉氏はこの話を取り上げなかったのか不思議なくらいです。
もっともノンマルト側も、海底開発されたからとシーホース号を爆破し犠牲者を出し、「ウルトラ警備隊のバカヤロー!」「人間が悪い、地球はノンマルトのもの」としか言ってなかったもので。彼らもまた、ノンマルトという<わたしたち>中心にしか考えてない気もしました。
戦争は外交の一手段というより、最終手段だと思うのですが。積極的に使用するための核武装があり得ないように。
ウルトラマンマックス』のバルタンの回で。「経済活動や戦争で環境破壊をして、他の星を侵略する地球人」となじるダークバルタンに対し、ハヤタ役の黒部進さん演じるトミオカ長官が「戦いを仕掛ける者にいかなる正義もない!」とカッコよく反論したことがありましたが。これと同意見ですね。


が、この回のウルトラ警備隊は。
迷えるダンが「僕は戦わなければならない」と変身し、タコ怪獣ガイロスを倒す一方。

キリヤマ隊長
「ノンマルトの海底都市! もし宇宙人が侵略してたとしたら、ほっておくわけにはいかん。
 我々人間より先に地球人がいたなんて……いや、そんなバカな。やっぱり攻撃だ」

と、根拠もなく攻撃命令を出して。ミサイルで海底都市を容赦なく爆破。

キリヤマ隊長
「ウルトラ警備隊全員に告ぐ! ノンマルトの海底都市は完全に粉砕した。
 我々の勝利だ、海底も我々人間のものだ!
 これで再び、海底開発の邪魔をするものはいないだろう」

という、あまりに人間としてのエゴに満ちた、衝撃的な言葉が出てきた、といいます。
まさに<あいつら>を排除した、<わたしたち>の醜い姿。
この話もまた、前述した金城哲夫さんの脚本です。ウチナンチューとヤマトンチューのことを考えれば、何をモチーフにしていたのかは明白ですね。


……でも。
それでも。
ウルトラセブンモロボシ・ダンは。地球を守ろうと戦い続け、20年前に《Uキラーザウルス》を兄弟たちと共に封印。人間として生きることを決断したのです。
そしてノンマルトは転生し、『ケロロ軍曹』に《ノントルマ》として登場(違)



セブンが葛藤した後、漫画版デビルマン不動明が人間に失望し、マーズもやっぱり人間に絶望してガイヤーで……と。
日本のヒーローたちは、「人間は守るに値する存在なのか?」という問いかけに向き合い続けた。その中から二者択一を決断し、最後には去っていったり。あるいは再び舞い降りたり。そうして戦い続けてきたんですね。
justice ではなく、正義の味方として。

justice によって運営されるのは、永遠に剣がふりおろされつづける世界である。
わたしたちの<正義>感は、justice 概念を否定する。
ロールズの正義論を、クサカス&ペティットは「ロールズの発想は、社会的あるいは分配的正義は純粋な手続き的正義の問題と理解されるべきである、というものである。我々がそれに従って現実の分配の是非を判定するような、先行的あるいは理想的分配(あるいは、それへと導くであろうと我々が期待できるような原理群)など、存在しないのである」と評する。だが、何度もいうとおり、それは英語に内在する問題にすぎない。それがロールズの主張だとわたしは思わない。もしそこに限界を見出すとすれば、ロールズというより、「justice」という言葉に見出すべきであろう。
ジョン・ロールズが「justice」という言葉に忠実に、逐語的に忠実にみずからの論を語りはじめることで、justice をめぐる議論がゆたかな成果をあげてきたように、わたしたちもまず、「正しいすじみち」であるところの<正義>に忠実に、みずからの正義論を語りはじめなければならない。

はい。
わかりましたっ!


ええ、思わず感動してしまいましたよ。
<わたしたち>日本人は、日本語であるところの「正義」に忠実に、ヒーローの正義を語らなければならないんですね。
自分も特撮に本格的にハマり始めたのは、つい最近のこと。アニメファンとしての歴史も古いです。
が、知識がなくとも考察は出来る。
これからも日本人として、ヒーローの「正義」を見つめていきます、白倉さん!



いや〜最後の最後でいい主張を読んだ。
この調子で、第6章最後のパラグラフ「3 ヒーローと正義」に移りましょう。

「犯人は、この中にいる!」
と、名探偵が高らかに宣言する。
ミステリーの娯楽性をささえているのは、入り組んだ難事件を、名探偵がそうして快刀乱麻に解決してみせるカタルシスにある。
一般にわたしたちが感じている善悪感や正義の正体は、ほぼここにふくまれている。
渾沌が悪であり、秩序が善である。
渾沌を秩序化するのが正義なのだ。
平らくいえば、わたしたちの正義とは「整理整頓」にひとしい。

……あれ?


以下、一番最初の反論で取り上げた箇所を含めて、結末部分を引用していきます。
「正義」と「justice」の違いを踏まえた上で、もう一度お読みください。

しかし、ヒーローと怪物は、ともに両義的な存在である。桃太郎と鬼は似たものどうしだ。桃から生まれるという<ふしぎな出生>をした桃太郎は、わけのわからない<渾沌>を体現した存在であり、鬼が島の鬼と同類である。
渾沌と渾沌との戦い。
同じ渾沌どうしが、かたや善玉となり、かたや悪玉とされる分岐点は、<わたしたち>にある。
桃太郎は、桃から生まれた渾沌であるけれども、主人公であることと、おじいさん・おばあさんという共同体に育てられたことによって、<わたしたち>の烙印が押されたのだ。
<わたしたち>化された渾沌がヒーローであり、<あいつら>のままでいる渾沌が悪なのだ。
このようにわたしたちは、渾沌が<わたしたち>の側であるかどうかによって、ヒーローと悪とに区分する。
<わたしたち化>されてヒーローとなった渾沌が、<わたしたち化>されていない渾沌を屈服させる整理整頓が、ヒーローの正義なのである。

……………………………………………………………………………………。
…………………………………………。
……………………。
…………。


はーい、みなさんついてきてますかー?(2回目)

       日本語の「正義」は「正しいすじみち」。
   正義という言葉自体が、自身の正義を問いかけているのだ!
                ↓
    でも正義の正体は、「渾沌を秩序化」することなのだ!
                ↓
<あいつら>のままでいる渾沌を悪とするのが、ヒーローの正義なのだ!

日本語であるところの「正義」は、自身が正義であるかをも疑うものなのに。
日本の御伽噺である桃太郎の「正義」は、渾沌の秩序化、なのだそうです。
その渾沌が渾沌であるかを問いかけることにこそ、「正義」の本質があるのに。
先のノンマルトが渾沌であるかどうか、ウルトラセブンは迷ったというのに。


この思考のねじれは、どこから来ているのでしょうか。

他人の渾沌は悪で、自分の渾沌は善。いいかえれば、他人の秩序は善で、自分の秩序は悪。
――<わたし>というのは、ずいぶんと身勝手な生き物だ。
「マナーからルールへ」を合言葉に、わたしたちは自分たちの世界から、渾沌を排除しはじめた。渾沌を混沌のままに描くことは「差別的」とされ、テレビドラマをはじめとする物語世界からも、多義的・越境的とされるような存在が排除されていく。
そうして、世界はどんどん美しくなっていく。

それは、日本がアメリカニズムに侵食されて、日本固有の文化を破壊されているからです。
あのウルトラ警備隊のような過ちだって犯すでしょう。人は弱いから、<わたしたち>という集団を作ろうとする。
でも、それを正す回路を内在するのが「正義」じゃなかったんですか?

かつてゲリラとかレジスタンスとかいわれたような抵抗活動は、いまや「テロリスト」という絶対悪を指す言葉に置き換えられた。ナジャフ郊外で自爆攻撃が起こったとき、米軍の将官が「これはテロ」だとコメントしている(The New York Times 二〇〇三年三月三十日など)。<わたしたち>の軍隊が<あいつら>の市民を殺すのは「戦争」だが、<わたしたち>の軍人が戦地で殺されるのは「テロ」である。

それは、アメリカという国家は justice なしに運営できないからです。

わたしたちは、やがて<わたしたち>以外の存在をすべて排除しつくすことによって、真に美しい世界を手に入れようとしている。
だが。
そんな日は永久に来ない。
世界が「わたし」を中心に回る日が来ないかぎり、そんな正義が実現されることはありえない。「わたし」は未来永劫にわたって、「正義の不在」「モラルの低下」「世界情勢の混迷」等々を、声高に叫びつづけざるをえない。そう主張することが、正しいことだと信じながら。

それは「正義」じゃなくて。「justice」です。
自分で数ページ前に述べたことを、もうお忘れになってらっしゃるのですか?

序章で述べたように、そうしたドロ沼の悪循環からは、もうそろそろ抜け出したい。
とするなら、わたしたちがすべきことは決まっている。
「世界は自分を中心に回っているのではない」ことに、気づかなければならない。天動説から地動説へのコペルニクス的転回を、わたしたち一人ひとりが、自分の中でなしとげなければならない。
渾沌そのものである世界や他者を、「わたし」という一元的原理によって秩序づけようとするのではなく、渾沌のまま受け入れ、理解し・許容し・評価する回路を、みずからの中につくりださなければならない。
<わたしたち>と<あいつら>をへだてる境界線を、踏み越えることにとどまらず、そんな境界線などはじめから存在しなかったことを認める勇気を、持たなければならない。

そうですね。全くです。
分かりましたから、その主張をアメリカで声高に叫んできてください。
何で、日本で言ってるんですか?
……ああ、アメリカベッタリ政策だった、前首相に対して言ってたんですか?


――もう、お分かりでしょう。
白倉伸一郎氏の言う、<わたしたち>とは。
アメリカの推し進めるグローバリズム」のことです。
地球市民」こそ、白倉氏の否定する<わたしたち>なのです。


白倉氏は「正義」と「justice」は違うと言いながらも、日本の<わたしたち>とアメリカの<we>*2を区別できない。
日本とアメリカが、違う国だということを認識してないのです。
<わたしたち>の「正義」によって、<あいつら>を渾沌のまま受け入れ、理解し・許容し・評価するという可能性に気づけない。
だから白倉氏は<we>だけでなく、<わたしたち>という「公」をも取っ払え、と言う。
取っ払った結果が、今の日本です。
「正義」という日本語は、日本の歴史の中から生まれたもの。その<わたしたち>の歴史を、文化を捨て去ったら。あらゆる境界線を認めない「地球市民」という、得体の知れないものになったら。
ますます「正義」はなくなって、アメリカの「justice」に追従するしか道はなくなりますよ?


白倉伸一郎の正義。
それは、アメリカ的な「管理社会的秩序」「都市型社会生活」「justice」を全否定し。
杉原千畝ウルトラセブンといった、現実・虚構双方に存在する「正義」のヒーローを無視し。仮面ライダークウガを不当に貶めて。
<we>の特質が、<わたしたち>にも現れるだろうと決め付けて。
結果、日本的「正義」をも否定する。まさに感情的、思い込み優先な「渾沌」と呼ぶに相応しいものです。



それとも、資本原理主義がこれ以上なく発達し、アメリカニズムの台頭を止められない今の日本に、もう「正義」なんてないのでしょうか?
何せ虚構の世界のヒーローにおいても、総集編を乱発しフォロー不能なダメシナリオを描いた『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』のDVDが、その宣伝力によって売れに売れるという現状をさらしています。
敵役の言葉に反論らしい反論もせず叩き潰し、真なる意味で「力だけの存在」となったキラ・ヤマト。主人公の座すら分捕った彼は、まさに justice の象徴。
その作品自体もまた、「売れている」という資本原理主義的・功利的な絶対正義のもとで、マスコミもスポンサーも、テレビブロスさえも(←関係ない)批判できない聖域となってしまいました。
もう虚構でも現実でも、justice を超える「正義」など、わたしたち日本人には構築できないのでしょうか?


……いや。
奴がいます。
仮面ライダーカブト天道総司が。

天道総司
「おばあちゃんは言っていた。まずい飯屋と悪の栄えた試しはない――」

25話(脚本は米村正二さん)に登場した、天道語録の一つです。
が、白倉氏は本著でも、自身のブログ『A Study around Super Heroes』でも、こう主張されてます。

ある二元論に則るかどうかを、《是非》とか《善悪》とか、別の二元論にそっくり置き換えて評価するのを「象徴的二元論」という。その先に何が起こるかは、この辺が指摘するとおり。

(A Study around Super Heroes > ひとりごと > もっとがんばりましょう より)

ちなみに「この辺」のリンク先は、現在日記が消去されてるみたいですね。
前は「桐矢京介の言動に嫌悪感を覚える=象徴的二元論的に、後期響鬼が悪い出来と思ってるだけ」とか書いてあったような覚えが。『ヒーローと正義』を引用しながら、そう書かれてましたね。


……しかし、天道は。
旨い、不味いという、感情や感覚による二元論と。
善悪の二元論を、そっくり置き換えてるのです。
白倉プロデューサーが、今までの集大成として創っているはずの、『仮面ライダーカブト』の主人公が、です。


……天道は、きっと知っているのです。
「料理」は、歴史ある文化。長い年月をかけて研ぎ澄まされてきたのは、料理も、正義も変わりないと。自分の感覚に従って下す判断なら、不味いも悪も一緒だと。
作者たる白倉氏の唱える「反・象徴的二元論」をも超越する。まさに天の道を往く者、プロデューサーすなわち作者ですら、彼の道を邪魔することは出来ないんですね。
俺は誰からの指図も受けない。俺の通る道は、俺が決める――
そう言う天道も、「おばあちゃん」の言葉を胸に、「妹」を見守りながら、天の道を往っている。そうして、自身の感性を磨き。その感性に従って、総てを司っている。
作者の思想ではなく、自身を育んだ<わたしたち>に重きを置く。


きっと、天道総司なら。
白倉氏の言うところの「ヒーローの正義」など、軽く超越して。
<あいつら>を排除することなく分かり合える、<わたしたち>日本人の精神を見せてくれる……かも、しれません。
断言はしません。天道なら、自分のような凡人の期待などあっさり超越してくれるだろうし(笑)。押し付けは出来ませんよ、だって天道だもん。


……そして、もし白倉プロデューサーが。
それでも「反・象徴的二元論」を、天道に無理矢理適用しようとするなら。
「日本人」天道総司を、強引に「地球市民」に改造させたなら。
きっと《ザビーゼクター》を失った矢車さんの如く、天道という稀有なキャラクターは白倉氏の元から離れていくでしょう。
天の道を外れた者に、何が起こるか――


だからこそ、馳川HTBは。
これからも『仮面ライダーカブト』を見守りたいと思います♪(←気持ち悪いよ!)






……長文乱文にお付き合い頂き、心より感謝します。

*1:「子ども」って表現は気を遣うのに、ここで「視覚障害者」とは言ってないんですね。何だろうこの基準。

*2:<we>には「帝王の自称、朕」という意味もあるそうな。ここで「we」の語源について語って「わたしたち」との差異を書ければいいのでしょうが、何度も言うように自分は英語が苦手なんだー!(笑)