白倉伸一郎『ヒーローと正義』を徹底検証する2

2.白倉伸一郎VS仮面ライダークウガ〜決して犯してはならない批評のルール

ヒーローと正義 (寺子屋新書)

ヒーローと正義 (寺子屋新書)

仮面ライダークウガ』。
29話までの響鬼を担当された、高寺成紀プロデューサーが手がけた第一の平成ライダー
自分はリアルタイムで観てはいないのですが、その評判は多く聞きます。


果てさて。
30話以降の響鬼を担当された、白倉伸一郎プロデューサーが執筆した『ヒーローと正義』。
その中で、クウガは徹底的に批判されています。
著書の発行日は2004年6月20日。ちょうど仮面ライダーブレイドで、睦月が橘さんの弟子になった頃ですね。ええ、「ギャレンになる時の基礎訓練の一つ」を受けてた頃です。「3!」「5!」「デタラメを言うな」のアレです。
そう、橘師弟は知らなかったのです。自分たちがトンチキな修行をしていた頃、まさか自分たちの先輩ライダーがあんな悲惨な非難を浴びるなんて、この時は誰も思ってませんでした(意味不明)。


まぁ、読んだほうが早いです。サクサク行きましょう。


第4章「勧善と懲悪/都市社会の秩序」において。
都市社会=境界線を維持する上でのマナー=倫理が、ルール=法律へと変化していると主張する白倉氏は。
その一例としてクウガを、そして『ウルトラマンコスモス』を挙げました。
双方とも「強力なメッセージ性を持つ番組」として、日本のドラマ史に残るほどの作品だったと述べた上で、そのメッセージ性を白倉氏は検証していきます。

クウガ』の主人公は「冒険家」というふれこみだが、かれが劇中で行なう最大の冒険は、部屋に入るのにドアからではなく、壁をよじのぼって二階の窓から進入することである。

それはちょっとした冒険だな!(違)
……いきなり論旨とは関係ない、個人的ツッコミから始まってます。

仮面ライダーに変身してからも、必殺技を放つ前に、わざわざ山奥まで敵を運んでから爆発させるという細かい気配りをみせる。ヒーローが怪人を倒すと言う状況であっても、周辺住民にいささかでも影響をおよぼすのは、人に迷惑だからだ。

補足。クウガのキックは、フォーム強化されるごとにどんどん爆発力がアップしていったそうで。
50tの威力を誇る《ライジングマイティキック》は、爆心地から半径約3kmが壊滅って大惨事だよ迷惑なんてレベルじゃないよ!

管理社会的秩序を、強く志向するクウガ

「管理社会」。これまた随分とサヨク的(略)

そうしたクウガの社会観をあらわす典型的なエピソードは、第二五話「彷徨」と第二六話「自分」の前後編であろう。
夏休みに入り、栃木から少年がふらりと上京したのを、心配した担任教師から連絡を受けた主人公が説得して帰すという物語。
この少年はべつに家出をしたわけでも、何をするわけでもない。玩具店に入ってプラモデルを見る程度である。そうした少年をめぐって、大人たちが大騒ぎで奔走し、「いまの子どもたちは」とくさすという物語だ。
ここに表出されているのは、「小学六年生の少年が、担任教師に断りも入れず、保護者の同伴もなく、ひとりで東京に遊びに出る」という行為は、ヒーローの出動が要請されるほど「とんでもないこと」だという感覚である。
もはや少年たちは、物語の中ですら、家出どころか自由行動も許されない。

だから「子供」が正しい日本語なんだけど……まぁ、いいでしょう。


とにかく、皆さん。
この部分を、よぉ〜〜〜く読んでおいてください。
とりわけ『クウガ』を未視聴の方は、この文章から得られるクウガへの印象を、よぉ〜〜〜く覚えておいてくださいませ。


これを踏まえて。
クウガ本編、EPISODE 25「彷徨」とEPISODE 26「自分」をレビューしてみようではないですか。
ちなみに断っておきますが、自分がこれが『クウガ』初視聴となりました。

EPISODE 25「彷徨」

まずOPが流れ、グロンギ語の意味不明な会話がされます。
後、場面は栃木の小学校に。白倉氏の言う担任教師=神崎先生が、夏休みの過ごし方について未確認生命体について注意されています。
未確認生命体の恐怖が世間に浸透し、その対策が採られている。それがクウガの世界観のようです。
先生曰く、栃木ではまだだが、埼玉や茨城では犠牲者もたくさん出ている。だから特別な用事のない人は東京のほうに絶対に行かないこと、と。明確に、しかも先手を取って注意しています。
しかし、小学六年生の少年=霧島少年は「1ヶ月出てないから出ないのでは」とだけ発言。
先生はこの時点で、少年が何か悩みを抱えている、と察知したようです。有能な先生じゃないですか。


そして霧島少年は、「ふらりと上京」します。
JR宇都宮線快速ラビットで東京に出る切符を買う際、大人切符のほうに指を向けてから、子供切符を選択しました。
「ふらり」と言うよりは、「ふらふら」と迷う心の描写がされています。


次いで、未確認生命体出現。都内に厳重警戒がされます。


主人公・五代雄介の元に電話が。それは恩師・神崎先生からでした。
生徒*1が独りで、東京の浅草橋に行ったというのです。
浅草橋には元・父親の実家(現在は駐車場に)があり、3年前はその近所で楽しく遊んだと作文に書かれていたそうです。
神崎先生曰く「おそらく、そういう場所に行きたくなったんだと思うんだが」。
彼は「僕の場所がない」と作文に書いていた(正確には「僕の場所がない」と一度書いて、消した跡があった)のが気になる、と。


一方、そうとは知らず、浅草橋を探索する霧島少年。
行きつけの駄菓子屋のお婆ちゃんが、ホーム(おそらく老人福祉施設)に入っていなくなったと聞きます。


最後にクウガが未確認生命体と戦闘、相打ちで取り逃がします。
ここで25話終わり。……完全に「前編」で、盛り上がりどころに欠けるかもしれません。

EPISODE 26「自分」

冒頭、手負いの五代は、警視庁特別合同捜査本部の一条刑事に「もう治りかけてるから大丈夫、それより」と、怪我を押して少年を探しに行きました。


当の少年は、なおも浅草橋に。
当時遊んだモケイ店はつぶれ、今はクリーニング屋になっています。
しかしそこには、自分の名札のついたV2ガンダム(推定)のガンプラが今も飾られています。
それを外から眺め、うつむく霧島少年。
ん……?

この少年はべつに家出をしたわけでも、何をするわけでもない。玩具店に入ってプラモデルを見る程度である。

デタラメを言うな!(by 橘さん)

……ええ、自分も驚きました。まさか白倉氏が、こんなベタな印象操作を行なうとは。
朝日新聞もビックリ、TBSの捏造報道並みです(←そうやって大ゲサに書くのを「印象操作」って言うんだよ)。
「つぶれた玩具屋で、今も残されたプラモデルを外から眺める」のと、「玩具店に入ってプラモデルを見る」のでは、随分印象が違います。てか、全くのウソじゃないですか。
確かに霧島少年は「家出」をしたわけじゃない、かもしれない。確かに、何もしていない。
でも、何かを悩んでいる。迷っている。それは間違いないでしょう。
そんな少年の思いを、白倉氏は「ひとりで東京に遊びに出る」という一文で片付けてしまったのです。


レビューを続けましょう。
神崎先生が、JR東北新幹線で東京に向かいます。


一方、警視庁特別合同捜査本部で、未確認生命体の無事が確認されます。
捜査本部、警察の努力も全くの無駄になるほど、強い奴が出てきたのか、と悩むも。
ずっと五代のサポートを続けてきた、一条刑事は前向き。警戒を強化します。


そして五代はとうとう、浅草橋駅で切符を買っている少年を発見。帰路の切符かは不明です。
霧島少年は、改札口前で悩んだ末、切符をしまい立ち去りました。それを見守って、そっと後を追う五代。
……はい、「都市型社会生活」における「管理的社会秩序を、強く志向するクウガ」ならば、この時点で少年を無理にでも保護、栃木に追い返すはずですね。でも五代は、そうはしなかった。


神崎先生、東京到着。五代が住み込みで働いている喫茶店パレポレへ。
五代の友人・沢渡桜子、五代の妹・みのりと挨拶後、「どうぞ座ってください」という言葉より先に、先生は五代からの連絡を尋ねました。
ついさっき少年を発見したから、ここで待っていてと伝言を受け、「そうか、いやぁ、よかった……」と、心から安堵する神崎先生。
わざわざ新幹線でやってきて、何より少年を心配し。笑顔で無事を喜ぶ神崎先生に、「管理的社会」を望む冷たさは微塵もないでしょう。白倉氏は、果たして何を見ていたのか?


どこかの神社にて。五代は、先生に連絡後、優しく霧島少年の隣に座ります。
神崎先生の教え子、と名刺を渡し。心配した先生が、すぐに追いつけないから自分に連絡したのだと説明して。

五代雄介《仮面ライダークウガ》
「俺は、5年生ン時だっけなー、家出したの。……何か我慢できなくなって。……でも結構勇気いるよね」

五代は、神崎先生が今でもサムズアップをやっているか尋ねます。
少年は「先生はやってるけど、皆はほとんどやらない。意味ないし」と。
と、五代が、サムズアップの意味は「古代ローマで、納得のいく行動をした人だけに与えられる仕草」だと説明。し、知らなかった。きっと『ぱにぽにだっしゅ!』の一条さんも、そうだと知って(略)
「知ってるけど……」とつぶやく少年に、五代は「だから」と笑顔でサムズアップ。

五代
「さっき、悩むのなんて止めて帰ろうと思って、駅まで行ったんだろ。でも納得いかなくて、やっぱり今ここで悩んでるよね」

霧島拓
「逃げてるんだ、塾休んでこんなトコいちゃダメなのに」

五代
「いいんだよ」(と、笑顔でサムズアップ)

五代
「納得いかない時は、とことん悩んでいいんだよ」

ポレポレで語る神崎先生。

神崎昭二
「霧島がいつからそんなに悩んでいたのか、わかってやれなかったのが、残念です」

沢渡桜子
「でもなかなか、先生には言えないものじゃないですか?」

神崎先生
「最近の子供たちはね、昔より分かりにくくなりました。意外なぐらい素直で、きちんと言うことは聞いてくれる。でも……何と言うのかな。それぞれの差がなくなって、大人しくなったというか」

五代みのり
「大きい子たちって町で見かけると、何となく冷めてるみたいな気がします。保育園ぐらいの時は色んな顔があって、それが凄く可愛いんだけど」

桜子
「本音を出さないようにしてるってトコ、あるんじゃないかな。何となく、そういうトコわかってるっていうか」

神崎先生
「かもしれませんね。もう6年生だから、なのか……まだ6年生なのに、なのかね」

そして、五代も。

五代
「今まで、君は素直すぎたんじゃない? もっともっと悩めばいいんだよ」

さて、ここで問題。
これらの会話から、五代や先生たちが「管理的社会」を望んでいるのだという論拠を簡潔に表しなさい(10点満点)。
「意外なぐらい素直で、きちんと言うことは聞いてくれる」なら、管理的社会で全く構わないはず。「それぞれの差がなくなって、大人しくなった」、めでたしめでたしじゃないですか。
それなのに何故、白倉氏は? 誰か教えてください。マジで。


ポレポレでの談義は続きます。

神崎先生
「時々、子供たちが痛々しくなってしまうんです。今の子供は悩めない、まず悩む時間がない。それに、悩んだり傷ついたりするのが辛いだろうからって、それを忘れさせるためのもので、溢れてるでしょう」

桜子
「楽しいことが一番って感じ、ありますよね」

神崎先生
「最近、時々テレビを見ていて、恐ろしくなってしまうんです。悩んだりなんかしなくていい、もっと面白いものをたくさん買って、面白い場所でお金を使って、何も考えずに生きろ。誰も彼もが、そう言ってるように聞こえてね」

桜子
「ちゃんと大人になるのが、難しい世の中なのかもしれませんね」

(神崎先生、無言でうなずく)

みのり
「悩ませたくないというのが、お父さんやお母さんの気持ちかもしれません。本当は自分たちに考えさせたりして、その家ごとの躾をきちんとして欲しいんですけど。厳しくするより、可愛がるほうが、親御さんにとっても楽なのかな」

神崎先生
「でも、大切ですよね。悩むってことは」

む〜〜、さすがにテレビ批判などは言いすぎでしょう。
この辺り、白倉氏の言う通り「『いまの子どもたちは』とくさす」面が見受けられるかもしれません。
もっともあの批判文では、大人たちが少年に答えを押し付けているようにしか読めないのでですが。
そうではないことは、これらの会話から幾らでも読み取れるでしょう。


自分的には、これは都市型ではなく「ムラ社会」の側面ではないか、と思います。詳細は後述。


霧島少年は、五代に問います。

霧島
「ずぅっとここで悩んでいれば、答えが出るかな?」

五代
「…………出ないだろうね。だって、そんな簡単に出たら、悩むことないじゃない。何年かかったっていいんだよ。みんな悩んで大きくなるんだから。君の場所はなくならないんだし。
 君が生きている限りずっと、その時いるそこが君の場所だよ。……なんてね、これは神崎先生の受け売り」

(微笑む少年)

五代
「その場所でさ、自分が本当に好きだと思える自分を目指せばいいんじゃない? ね!」

と、五代は、笑顔でサムズアップ。


そして、五代は出撃します。
「都市型社会生活」ではなく、少年を守るために。


……ちなみに戦闘そのものは、一撃であっさり終わります。
カタルシスがないっちゃあ、ないかもしれません。玩具販促的には良くないのでしょうが。


そしてラスト。
霧島少年は、先生と再会し……どうなったかは、ここでは省きます。
この最後のシーンで「グッ」と来る人がいる。が、いない人だっているのでしょう。それもまた、「人間」なんだろうけど。



と、いうわけでまとめます。


自分は感動しました。
と同時に、少年の悩みに応えるためといえ、ヒーロー番組的描写を極限まで省いて良かったのか、疑問ではありました。少年の悩みに対比するような敵キャラでも出せば……え、それはそれでご都合主義?
もっとも、販促番組で時々放送される「玩具はあまり出てこないけど、何かイイ話」は、『おジャ魔女どれみ』シリーズでよくあることなので、自分は慣れてます。(笑)


しかし。
これは、それ以前の問題なのです。
放映版から大幅な修正でもされてない限り、白倉氏の解釈ミス、あるいは解釈誘導としか考えられません。
クウガたちが望んだのは「都市型社会生活」ではなく、昔ながらの「ムラ社会的共同体」なのは明確でしょう。
ムラ社会は閉鎖的側面もあるものの、大人たち全員で子供たちの成長を見守る社会です。決して都市のような冷たさはない。
白倉氏は、この話から「管理社会的秩序」が志向され、「都市型社会生活」が見出されるのは何故か、を説明する義務がある! とすら、自分は思います。
うさんくさいと思うのは自由ですが、話の解説自体を偏向させるのはルール違反です。自分の解釈のみで粗筋を書いては、未見の人間が誤解してしまう。
事実自分は、この批評部分を読んだ時、

  • クウガたちが「過保護」に見える側面があったのでは?
  • クウガの戦いすなわち「管理社会的秩序」を守るためが故、子供の自由を奪ってしまったのでは?

と思えました。
実際は違ったわけですが。


例えば「こういう好意的評価がある、だが本質はこうなのだ」と両論併記する。
それこそが「言論の公共空間」における、せめてもの「誠実」さというものではないでしょうか?


……『ヒーローと正義』のあとがきで白倉氏は、マックス・ヴェーバーの「知的誠実性の欠如」について論じ合った「羽入・折原論争」を読み。

「プロ学者」が、知的なのはあたりまえとしても、さらに誠実たらんとしている。まして、自分は学者ではないから、誠実である必要はないなどという甘えが、同じ『言論の公共空間』で許されるはずがない。
テレビ番組制作という本業には、全身全霊をこめて誠実にとりくむけど、執筆は余技……などという錯誤は、払拭されずをえなくなった。
それまでの原稿を、すべてふりだしに戻し、一から書きなおしはじめた。
当初予定の締め切りは、とっくに超過している。

このように考え、実行したのだそうです。
「誠実」にクウガを分析した結果、こうなったわけです。
少なくとも、白倉氏は誠実な分析だと思っているようです。


しかし自分は、少なからぬ疑念を覚えます。
白倉氏の「正義などない」「<わたしたち>と<あいつら>の境界線をなくせ」というイデオロギー、いわば"物語"が、クウガという番組の解釈を偏向させているのでは? と。
それは、自説を証明するための「意図的な解釈誘導」か? それとも、最初から人間など信じていないから「そう見える」のか?



『ヒーローと正義』の文に戻りましょう。


白倉氏は、『クウガ』を受け『ウルトラマンコスモス』が始まったとし。
都市の秩序を乱す怪獣を、なるべく説得して怪獣保護区に隔離する=怪獣を「補導」するヒーローが、《ウルトラマンコスモス》だと言います。

クウガ』の一エピソードにおける少年の説得と同じ精神構造が、シリーズ全体に展開されているといえる。
一九六〇年代中盤から、じわじわと侵食を始めていた都市中心的・管理主義的・秩序思考的な世界観が、ついにヒーローもののメインテーマの座まで射止めたということだ。
こうした番組から読み取れる「平成の勧善懲悪」とは、すべてを都市型社会生活のルールの上に秩序だて、そこから逸脱しようとする者を、あるいは排除し、あるいは納得ずくで管理下に置こうとする――という思想である。
怪獣たちは、もはや人間の手にあまるようになり、超越者としてのウルトラマンや「地球生命」「マナ」といった高位の存在に管理をゆだねられた。一方で、仮面ライダーは怪人を向こうに回すだけでは飽き足らず、警察という司法機関と協力しながら、少年の行動をも監視し始めた。
それが、現代のヒーローの正義なのである。

……クウガについては、もういいでしょう。曲解にも程があります。
コスモスは未見なので、ノーコメントにさせていただきます。
ただ、もし怪獣や未確認生命体が田舎も田舎、人里離れた山中などに現れて、そこにクウガやコスモスが駆けつけても、「都市中心的・管理主義的・秩序思考的」になるのだろうか? とは思います。
ん? それってもしや、響鬼さんたちのことでは……(笑)



続けましょう。
『ヒーローと正義』は、ここで少年犯罪に言及します。
クウガやコスモスは、人間としての境界を逸脱し、その世界観の外に飛び出す行為であるとして。

かれらは、警察やチームEYESといった秩序防衛機関の協力者となるが、けっして組織の代表者にはなりえない。
一個の人間存在として、個人的見解や意見を持つのは自由だけれども、ひとたび変身するやかれらは人外の者であり、人間領域の外縁部にはじき出される存在である。そうしたかれらが、秩序防衛組織と完全に足並みをそろえることは、現秩序を外部から全肯定するという図式になる。現秩序の正当性が、内部と外部の両面から保証される。

保証されて、それで? と思う自分です。
それとも、怪人や怪獣に蹂躙される被害より、「現秩序の正当性」が保証されることのほうが問題なのでしょうか?
オウム事件の頃を思い出しますね。さらなるテロの被害よりも、破防法適用によって法秩序が乱されることのほうが問題だ、って知識人に言われてたあの頃。
いいじゃないですか、現体制を全肯定することになったって。社会的に非難されようと、「今」この時を守るため法を――<境界線>を超越して、裁きを下し。その責を負って去っていく。まさに英雄、ヒーローじゃないですか。


とにかく「管理社会的秩序」「都市型社会生活」を否定したい白倉氏は、その都市型ナントカに影響された現代のヒーローの正義=勧善懲悪とは、

  • 勧善=それぞれに与えられた生活圏と期待される行動原則から逸脱しないこと
  • 懲悪=決められたルールを破ったり、あてがわれた場所から離れて自由にふるまおうとする者を説得し、応じないものには罰が与えられる

と定義した上で、クウガとコスモスの製作された当時の世相を振り返ります。

「少年凶悪犯罪の急増」に世相は揺れに揺れ、「加害少年を保護する少年法の壁」に対する批判が強く叫ばれていた。
法制審議会が「少年法改正のための要綱」を法相に答申した直後にスタートした『クウガ』は、少年法改正案が国会に提出されるのを受けるようなタイミングで、少年怪人に怒りをたたきつける第三五話を放送する。

と、再びクウガ批判を始めるのです。


前回同様、白倉氏の解釈を、まずはそのまま引用しましょう。

「愛憎」とサブタイトルがつけられたこのエピソードにおけるクウガの敵は、少年をつぎつぎと殺戮する少年怪人ゴ・ジャラジ・ダだ。
この怪人に対し、クウガはあらんかぎりの力でパンチの連打を浴びせかける。怪人がぐったりしたところを、べつの場所に運び、さらに剣でめった斬りにする。地面に倒れ伏した怪人に、馬乗りになって剣を突き立て、ようやくとどめを刺す。
義憤というには感情的すぎるほどの、怒りの奔流をほとばしらせるかれは、少年犯罪について議論沸騰する社会に対して、明確なメッセージを送っていたといえよう。
「最近の子どもたちはわからない。けれども、人を殺すようなヤツは、少年だろうがなんだろうが、怒りの鉄槌をくだすべきだ!」
と。

だから「子供」が正しいんですってば。


とにかく、皆さん。
先と同じように。この部分を、よぉ〜〜〜く読んでおいてください。
その上で、クウガ本編、EPISODE 34「戦慄」とEPISODE 35「愛憎」をレビューしてみようではないですか。先のような解釈ミスがあるか、監視しながら。
……ええ、前後編ですこのお話。この本には、そうとは書かれてませんでしたが。

EPISODE 34「戦慄」

冒頭からハードな展開です。
子供たちが、次々とジャラジの犠牲になっているそうです。
緑川学園2年生男子の死者は、91人中78人という異常事態。さらに増えているとか。


その頃、五代は。
みのりの勤める豊島区のわかば保育園で、ケンカした子供を諭していました。
自分が作った積み木の城を、相手のものにされそうになったのが嫌だったという男子。だが積み木を蹴飛ばす前に、そう言ってみればよかったのでは、と。


一方。緑川学園の生徒が、絶えかね自殺……
やめて。こういう展開マジやめて。泣いちゃう。見るの辛くなる……


箱根の別荘で、ジャラジの襲撃を受ける生徒。必死で守る父。
追い詰められた母子に、少年怪人は言う。

ゴ・ジャラジ・ダ
「君たちが苦しむほど、楽しいから」

……た、助けて天道!
「おばあちゃんが……」って言いながらハイパークロックアップで駆けつけて、もう原型なくなるまで叩きのめ(略)


あ、実際は。寸でのところでクウガに助けられました。
無事を喜び合う家族。次回に続く。

EPISODE 35「愛憎」

ジャラジとの戦闘に、倒れるクウガ

ジャラジ
「今はゲゲル*2の時間だ、邪魔したら、殺すよ?」

一方わかば保育園で、もう一人の男子を諭すみのり。

みのり
「ほら、二人で紙芝居作ったことあったよね。色んなヒーローがいっぱい出てくるやつ」

……はーい、二十歳越えてもそんな同人ばっかり作ってる人間が自分でーす(←関係ない)

みのり
「シュウトくんが嫌なことをした時には、ちゃんと嫌だって、言ってあげたほうがいいと思うよ。ヒロくんにも、そういう勇気、大切なんじゃないかな」

みのり
「ヒロくんが、一番いいと思うようにしてみて」

前話で助けられた少年が保護されている、病院にて。
どうして自分たちが殺されなきゃならないのか、泣きながら言う少年に、五代は。

五代
「理由なんてないよね。だから――殺させない」

(ゆっくりと顔を上げる少年)

五代「皆そう思って警備してくれてるから」

そして五代は、ヒロユキとシュウトがどうなったか、電話してみのりに尋ねる。

五代
「大丈夫、分かり合えるよ。だって、人間同士なんだから。絶対大丈夫」

この時点で、相当の悲壮感が現れています。


追い討ちをかけるように、ジャラジの犠牲者が90人に、というニュースを知る五代。

五代
「俺……悔しいです。どうして何もできなかったんだろうって……」

一条薫
「あまり自分を責めるな。奴らは、我々と同じ姿を持ち、今では我々の言葉さえ話すようになった。それなのに、奴らは我々の感情を無視して殺戮を続けている。価値観の違いは決定的だ。
 どうしてそんな存在が産まれて来たのか――沢渡さんに調べてもらうことになった第0号関連の謎が、奴らの在り方を理解するための、何かにつながればいいんだが」

決して分かり合えぬ存在に、苦悩する二人。
だがわかば保育園では、みのりの見守る中……

ヒロユキ
「ねぇ、シュウトくん聞いて」

(一旦後ろを向き、戻り、口調を変えて)

ヒロユキ
「ずるいよシュウトくんは、いつもヤんなると黙っちゃって!
 怒って叩いたり、本とか投げたりして。そしたらもう、何も言えないんだもん。
 僕は、そんなシュウトくんは嫌い、大っ嫌い!
 でも、本当は、また一緒に遊びたいんだからね!」

なにこのツンデレ(違)
いや待て! そうか、わかったぞ! ツンで抗議しデレで仲良くなる、ツンデレこそ人が分かり合える最良の手段だったんだよ! な、なんだっ(略)


ツンデレという新たな文化を得て(←だから違う)、和解に成功した子供たち。
しかしそれとは対照的な、あまりに対照的なジャラジは少年を襲撃。
ギリギリで間に合った五代、変身。……この時点までは、落ち着いていた。
飛び掛り、窓を割って外へ。そのままマウントポジションで殴り続ける。
ここから、五代の様子がおかしくなる。


一瞬、場面が保育園に移る。
シュウト、ヒロユキの手を握る。


クウガの手はジャラジを殴り続ける。さらにバイクで攻撃。


保育園、シュウトが積み木をぶちまける。
二人、無言で何かを作り始める。


クウガ、これまでの犠牲者の顔、お葬式で人々が哀しむ姿など思い出しながら、苦しむジャラジに剣を振るい突き立てる。

五代
「うぉりゃあああああああ!!」

これは、クウガが「究極の闇をもたらすもの」になるかも、という伏線らしい……


独り佇む五代。


笑顔で、二人のお城を作り上げたシュウト、ヒロユキ。


駆けつけた一条たち。振り返る五代は無表情……



以上――
眼を覆いたくなるような話でした。


何故か。
それは、事件の凄惨さと相まって。
五代の苦悩が、あまりに痛く伝わってきたから、です。


確かにクウガは「懲罰」を振るいました。
けど、「振るうべきだ!」と主張したいなら、同時進行していた保育園での和解劇など流さないでしょう。
五代は人間は分かり合えると言っていたのに、グロンギには一方的な暴力しか振るえなかった。その事実がショックだったから、今回は笑顔でサムズアップしなかった(んだよね?)。
これは『仮面ライダー555』における名台詞「戦うことが罪なら、俺が背負ってやる!」に通じます。しかも、懲罰という「罪」を背負った=カッコイイではなく、背負った結果の先を……苦悩を描いている点で、555の覚悟から一歩先に進んでいる、とも言えます。


やはり白倉氏の解釈が歪んでいる、説明不足、としか言えません。
氏の解釈「最近の子供たちはわからない。けれども、人を殺すようなヤツは、少年だろうがなんだろうが、怒りの鉄槌をくだすべきだ!」のうち。
「最近の子供たちはわからない」は、本話では主張されていない。むしろ子供たちと対話し、信じようとしている。
そして「くだすべきだ!」の後には、本来こう続けるべきなのでしょう。「そして『クウガ』は鉄槌をくだした。が、それでいいのか……?」と。
鉄槌をくだし=「懲罰」し、ショックを受ける主人公。その姿から、それぞれの結論を出して欲しいのではないですか?



なお五代は最後に、本来は憎悪という感情で「凄まじき戦士」になったのではなく、人を思う心でアルティメットフォームになったそうです。
この話が、ラストバトルへのトリガーになった――って解釈でいいのかな?
それらを全く無視して、物語の一部分だけ抜き出し、都合のいい解釈をした白倉氏。
何故、と学会は動かないのでしょうか。こんなトンデモ解釈を、何故放置するのでしょうね?
何故、高寺氏は抗議しないのでしょうか、東映も抗議しないのでしょうか。DVDの売り上げに影響するのでは?
そして、五代雄介の傷心に全く取り合わず、同じ東映の作品をここまで貶める白倉氏は、本当に世間で言われている通り、実は誰よりも人とのつながりを大切にしている偽悪者≒善人なのでしょうか?
……とすら、思えてしまいます。


井沢元彦先生は言っていました。
朝日新聞の自社に有利な偏向報道は、結論ありきなミスリードは卑怯だと。
自説を通すために事実を都合よく歪めて伝える、客観報道とはほど遠い姿勢を、今でも批判され続けていますっていうかこのかたはいっつも同じことばっかり言ってて(略)
「正確な事実を伝える」のが本分な報道と、「ある事実について考え、評価する」批評は異なるものですが。
それでも、作品中の事実と違うことを述べ、本の論旨に沿った部分しか取り上げない姿勢は、非難されて然るべきものです。
何より、同じ東映の作品を。同じ仮面ライダーを。自身も「プロデューサー補」として参加した作品を、不当に歪めて紹介したのですから。



4章の最後に、白倉氏はこう言います。

クウガやコスモスは、いっしょうけんめい、そんな弱者の声に耳を傾けた。
しかし、ひとたびその声が単なる「ワガママ」でしかないと判断するや、ヒーローという強者として鉄槌をくだす。
クウガは少年怪人をタコ殴りにし、コスモスはコロナモードに変身して必殺光線を放つ。
「キレる十代」が巻き起こす「少年凶悪犯罪の急増」に対して、製作者たちは、真摯な応答をしようとした。
しかし、現実には、少年犯罪は増加などしていない。増加どころか、あらゆる統計資料が一九六〇年代中盤を境に、少年凶悪犯罪が激減したことを示している。

として、ここからちょっと調べればわかる「少年凶悪犯罪」の実態を述べていきます。
いくつかの著書を引用し、ネットの記事も取り上げます。

一九六〇年代から九〇年代にかけ、少年の犯罪率は人口対比で八分の一にまで低下し、その水準を維持しているという報告もある(http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson2.html)。

……あーこのページっスか、見たことあるある。
メディア・リテラシーが叫ばれて久しい昨今、こういうデータ「だけ」は誰もが知っておくべきだとは思います。
が、白倉氏は、そこから「トンデモ」と呼ぶに相応しいブッ飛び理論を披露します。

一九六〇年代中盤――
映像作品の歴史が示すように、この時期を境に、都市生活の秩序を最優先する管理主義が世界的に幅をきかせはじめ、息苦しいような時代となった。そんななかで、事実無根の「少年凶悪犯罪の急増」が大々的に報じられ、さも管理体制にまだ不備があるかのように語られる。
しかし、こうした管理下におかれた少年たちは、全般に「キレて」などいない。かれらにキレる自由など与えられていない。
むしろ、先手を打ってキレだしたのは、社会の側であり、ヒーローたちの側ではないだろうか。

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…………。


はーい、みなさんついてきてますかー?

少年凶悪犯罪が騒がれていて、キレる少年が問題になっているのだ!
               ↓
    でも、本当は少年凶悪犯罪なんて増えてないのだ!
               ↓
     だから少年たちは、全般的にキレてないのだ!

これが仮にも、東大文三を卒業した人間の論理ですか?
絶望した! 空虚な学歴権威主義絶望した!(by 絶望先生)


白倉プロデューサー。……は無理でも、白倉氏のファンの方々。この本の賛同者の方々。
前述した、わしズム18号での特集「こどもの現実」を、一度でいいから読んでください。
っていうか、白倉氏は取材したんですよね? 小林編集長のように、学級崩壊してない学校の姿を見に行ったりとかしたんですよね?
まさか、データがこう表してるからキレてない、って机上で結論出したわけじゃないんですよね?


現場で今なお「キレ」やすい子供たちに苦慮し、時には文字通り命がけで教壇に立っている教師たちに、少しは申し訳ないと思わないのですか?
それとも、「凶悪犯罪」を犯して初めて、子供が「キレ」たことになるのですか?


ちなみに、実は白倉氏の上げたページ「反社会学講座 第2回 キレやすいのは誰だからして、もうトンデモだったりします。お気づきかもしれませんが。
「戦後最もキレやすかったのは、昭和35年の17歳です」と、唐突かつ勝手に「キレること=少年凶悪犯罪」と、やっぱり決め付けてるのです。あー、もー。
白倉氏は全く無批判に、このページの著者の意見を採用したって可能性もあります。客観的にこの意見を読んでも、何ら疑問に思わなかったってことですかね。
「書籍版『反社会学講座』で大幅に加筆修正」したとのことですが、この辺が再反論されてるか、いちいちお金を払ってまでして調べようとは思いません。文章がいちいち挑発的過ぎで、これ以上読む気が起きません。大体「凶−1グランプリ」とか名づけるセンスからして(略)


……脱線ついでに。恐縮ながら、手前味噌な話を。
自分には妹が二人いまして。その上のほうは「キレる十七歳」世代ど真ん中でした。騒がれた当時は、兄妹家族でその世代論を笑い飛ばしたものです。現在奴は、兄より真っ当な社会生活を送ってまして以下略。
自分の認識では、白倉氏のようなテレビ屋=マスコミだけが「キレる十七歳」だと騒いでて、「わたしたち」のような庶民は呆れてただけだと思うのですが。いやはや。



話を戻しましょう。
自分はむしろ、ムラ社会を否定した管理社会が、キレやすい子供を作ったという説をとります。
そもそも、「キレやすいのは誰だ」でも言われている通り、「少年犯罪が近年急増したというのは、マスコミが捏造した世論」のですが、著内で「テレビ屋」と自嘲する白倉氏は、それについて何もコメントしていないのです。
風説を盲目的に信じる「わたしたち」しか非難していない。
視聴率主義で、まさに白倉氏のやり方である「面白さ優先」「ライブ感覚」なマスコミ、テレビ業界を一切非難していない。
「管理社会的秩序」「都市型社会生活」とやらの志向には、テレビの垂れ流す印象操作も充分関わっているはずですが?


そして。
誰のためにキレるのか? 自分のためにキレるのか、誰かのためにキレるのか。その議論が不十分です。
勿論凶悪事件の犯人たちは、独りよがりにキレていた。あの少年怪人ゴ・ジャラジ・ダだって、そうでしょう。
でもクウガは、五代雄介は「誰かのために」キレた、キレてしまった、と考えるのが適当なのですが……
なのに白倉氏は、「社会がキレた、社会が悪い! それに影響されたヒーローも悪い!」と言い募ります。
きっと、五代は反論しないと思います。暴力で解決してしまったのは事実、それを悔いたからこそ、最終回で五代は表舞台から去っていった、というのですから。
そんな彼の背中に石を投げるような行為だという、自覚はあるのでしょうか?


そういえば。
クウガの後番組『仮面ライダーアギト』に、クウガが出演するという話がなくなったのは、高寺プロデューサーの意向だと聞きますが。
その判断は正しかった、と言わざるを得ませんね。
もし、クウガをこんな視点からしか見られなかった白倉氏が、クウガを登場させたら。後期響鬼に匹敵する悲劇が待っていたでしょうから。



…………はっきり言います。
自分はこのクウガの件を検証した後、白倉氏のあらゆる発言を何一つ信用していません。
カブト東映公式ページでも、(s)と署名された記事は話半分で読んでいます。


またこの本でも、第2章「怪獣の悪・怪人の悪」において。

  • ウルトラマン』第八話でハヤタは、「怪獣無法地帯」を「まるで怪獣動物園ですな」と表現したが、これこそまさに<こちら>と<あちら>と世界を二分して捉えたい、境界線を引きたいという人間の意識だ。
  • 激走戦隊カーレンジャー』のレッドレーサーは、自分の恋路を邪魔した怪人に、ヒーローとして鉄槌をくだした。これは怪人が、怪人として存在しているだけで存在論的悪なのだということを傍証している。

などと述べてますが、もう自分は信じません。信じてません。信じられません。


そもそも、ウルトラマン第八話「怪獣無法地帯」の脚本は、金城哲夫上原正三
金城さんは『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 沖縄論』(小学館、2005年)で紹介される通り、沖縄と本土の懸け橋になることを願っていました。すなわち、ウチナンチューとヤマトンチューの「境界線」を越えようとしたのですが……
ちなみにレンタルビデオで実際に本話を見てみたところ、ハヤタは「まるで怪獣動物園ですね」って言ってました(←細かいよ)。
あ、ちなみに。

「怪獣無法地帯」にいたピグモンは何もしない。ただ逃げるだけなのだが、それが「友好怪獣」と銘打たれ、わたしたち視聴者もかれを「人間の友だち」と持ちあげる。<何もしない>ことが<友好>とみなされるのは、怪獣にとって人間を襲うのが当然の本性だと登場人物も視聴者もみなしたからだ。

とも書かれてましたが、これも全くのデタラメ。
怪獣無法地帯=多々良島の測候所員を救助しに来た科学特捜隊は、ピグモンに出会います。アラシ隊員はピグモンが測候所員・松井の元に案内してると推理するも、イデ隊員やフジ隊員は「怪獣は所詮怪獣」と疑ってました。が、ピグモンは、怪獣達に襲われた松井を助け、食べ物や水を運んでやっていたのです。松井は「命の恩人」とまで言ってましたよ。
白倉氏がこの本を執筆するに当たり、きちんと番組を見返したのか。だんだん不安になってきました。これは細かいミスでも何でもないですよ?
イデはピグモンに、「ごめんよ」と謝ってました。白倉氏も謝ってください、「<何もしない>こと」を「<友好>とみな」したのは、<わたしたち>じゃなくて貴方自身です。
とても<わたしたち>を批判する人間のすることとは思えませんが、どうでしょう?



そしてカーレンジャー。これもまた、クウガ&前期響鬼の高寺Pの代表作です。
販促番組故、1話につき一度は変身し怪人を倒さねばならない、という限界を提示しただけと、見てない自分は思うのですが。
そういえば、先日のカブトの料理対決編。生簀は最後で唐突にワームになって、ノルマ的にカブトに倒されましたね。それと同じなだけでは?
……ちなみにこの話は見てません、もう白倉氏に付き合い切れませんし。



では――最後に。
敢えて言います。


確かに、凶悪犯罪は急増などしていないかもしれない。しかし秩序は崩壊し、キレやすい渾沌の中で子供たちは過ごしている。
教壇にハサミを投げつけるなど、「ワガママ」という生ぬるい表現すらできない凶行すら聞きます。
こういった、「キレる十代」が巻き起こす「学級崩壊の急増」に対して、製作者たちは、真摯な応答をしようとしました。


しかし、ヒーローたちは、全般に「キレて」などいません。かれらはキレることの痛み、代償をも伝えようとしたのです。


むしろ、先手を打ってヒーローたちに、「管理社会的秩序」「都市型社会生活」とやらにキレだしたのは、白倉伸一郎の側ではないですか?

*1:劇中では「生徒」と呼称されてましたが、小学生だから「児童」が正しいですね。一応〜

*2:狩猟/殺人ゲーム、の意。