白倉伸一郎『ヒーローと正義』を徹底検証する1

1.白倉伸一郎VS小林よしのり〜「わたしたち」から切り離された「個」があるのか?

ヒーローと正義 (寺子屋新書)

ヒーローと正義 (寺子屋新書)

結論からいおう。
わたしたちが「これが正義だ」と漠然と考えているようなものは、<正義>なんて高尚なものでもなんでもなく、ただの感情論や感覚論にひとしい。

白倉伸一郎氏の著書『ヒーローと正義』。
序文から、こんな感じにブッ飛ばしてるわけですが。
「正義なんてない」という主張自体は、80年代のポストモダンが以下略。
要するに、ビートたけしが言っていた「赤信号、皆で渡れば怖くない」的な、真面目を一笑に付すシラケ文化って解釈でいいのかな?
しかし、過去の形骸化した思想をブッ壊したのが80年代なら、そこから新しい価値を作り出すのが90年代の使命だ、ってゴー宣で言ってた!(笑)
して、白倉氏はどんな新しい価値を生み出すのか。


氏は言います。

巷間「正義の不在」なんていうけれど、昨日今日いきなり不在になったわけではなく、はるか昔から正義は不在だったのだ。
ピラミッドの中に、当時の作業員が「最近の若い者は」うんぬんと落書きを残したという。「古を稽(かんが)へて風猷(ふうゆう)を既に廃れる」とは『古事記』の序である。昔に比べて道徳は地に落ちてしまったと、奈良時代の古代人がなげいている。
どんなに歴史をさかのぼったところで、正義なんてものはどこにも見つからない。
普遍にして絶対、かつ不偏の正義がほしいなら、わたしたちはそれを再発見するのではなく、これから発見しなければならない。

…………すみません。読んでて、いきなりつっかえました。
昔から「最近の若い者は」と愚痴られてた=だから正義なんてない、っていう公式がわかりません。よく言われる話ですが、自分はずっと疑問だったのですよ。
これが意味するのは、若い者に共同体のしきたり、正義とか倫理が全く伝わらないと嘆いている=昔からずっと、若い世代に伝えようと努力しているってことで。
それを繰り返しながら、ゆっくりと世代を超えて伝えられた「何か」があった、ってことです。正義があるから、伝わらないことを嘆いて、それでも伝えて……
それの連鎖が「歴史」でしょう。
それとも、正義なんて最初からない、若い者に誰も何も伝えないべきだ、と?



本著で白倉氏は、桃太郎、泣いた赤鬼などの御伽噺から、初代ウルトラマン仮面ライダークウガウルトラマンコスモスなどの、ヒーロー番組を分析し。
<わたしたち>という言葉を連呼し、それが如何にして成立するかを問い続け、こう結論付けます。

  • 世界観を混乱させ、不快にさせるものが、そうと意識されることなく、社会的な「悪」として規定されていく。
  • 自身の満足=正義の実践を得るためにルール=共同体を破るのが悪であり、ルール=境界線を破るために「変身」し、満足を得るのがヒーローの正義である。
  • 渾沌が悪であり、秩序が善。渾沌を秩序化=整理整頓することが正義である。

そして、最終章において。

桃太郎は、桃から生まれた渾沌であるけれども、主人公であることと、おじいさん・おばあさんという共同体に育てられたことによって、<わたしたち>の刻印が押されたのだ。
<わたしたち>化された渾沌がヒーローであり、<あいつら>のままでいる渾沌が悪なのだ。
このようにわたしたちは、渾沌が<わたしたち>の側であるかどうかによって、ヒーローと悪とに区分する。
<わたしたち化>されてヒーローとなった渾沌が、<わたしたち化>されていない渾沌を屈服させる整理整頓が、ヒーローの正義なのである。


(中略)


他人の渾沌は悪で、自分の渾沌は善。いいかえれば、他人の秩序は善で、自分の秩序は悪。
――<わたし>というのは、ずいぶんと身勝手な生き物だ。

この整理整頓を、「帰化」という言葉に言い換えると。
外国人地方参政権論議の賛成派の言い分にも聞こえてきますが、今は考慮の外にします。


とにかく白倉氏は、究極にわかりやすい物語「二元論」を否定するために。
自分たちこそ善とする、<わたしたち>批判を繰り返します。

わたしたちは、やがて<わたしたち>以外の存在をすべて排除しつくすことによって、真に美しい世界を手に入れようとしている。
だが。
そんな日は永久に来ない。
世界が「わたし」を中心に回る日が来ないかぎり、そんな正義が実現されることはありえない。「わたし」は未来永劫にわたって、「正義の不在」「モラルの低下」「世界情勢の混迷」等々を、声高に叫びつづけざるをえない。そう主張することが、正しいことだと信じながら。

どんな民族も、最後には民族浄化同化政策を行ってしまうのだ、とでも言いたげですが。
そんな泥沼の悪循環から抜け出すために、

渾沌そのものである世界や他者を、「わたし」という一元的原理によって秩序づけようとするのではなく、渾沌のまま受け入れ、理解し・許容し・評価する回路を、みずからの中につくりださなければならない。
<わたしたち>と<あいつら>をへだてる境界線を、踏み越えることにとどまらず、そんな境界線などはじめから存在しなかったことを認める勇気を、持たなければならない。

と、<わたしたち>&<あいつら>の境界線を取っ払え、ボーダレスになれ、と訴えるわけです。

……自分には、こっちのほうがよっぽど胡散臭く、嘘っぽくて受け入れざるものな気がするのですが。
そして、実に安心できる平凡な答えですね。いかにも歴史の教科書の最後に載ってそうな、道徳的で、人道的で、理想主義的な。
いや別に否定する気はないですよ。『超星艦隊セイザーX』でも、最終回で主人公が「全てを一つにしちゃいけない」って言ってました。主人公父も、長い年月をかけて祖父と心を交わせたことに涙を流し、「人は分かり合える」って悟ったじゃないですか。
いかにも白倉・井上コンビが「わかりきったことを描いてもしょうがない、あ、でも駆逐したいとは言ってないよ?」って切り捨てそうな、この素晴らしい特撮番組において。
そして自分は、このセイザーXに「命を賭ける」程心酔してる以上(←関係ない)。
ブレアードと分かり合ったたっくんの如く、他者という渾沌を、理解し・許容し・評価してみたいと思います。可能な限り。


例えば、これを。

  • <わたしたち>=アンチ「前期響鬼」(≒後期響鬼ファン)
  • <あいつら>=アンチ「後期響鬼」(≒前期響鬼ファン)

と定義してみましょうか。


明日夢のどこが好きかわからない、29話のどこに感動できたのかさっぱりだ。
そんな<わたしたち>は、30話以降の響鬼の改革を改悪としか受け入れられぬ<あいつら>が理解できない。
<あいつら>のバカ騒ぎは、事実を事実と認めぬその様は、不快だ。いや、鑑賞して楽しめすらする……
だから、<わたしたち化>されてヒーローとなった<あいつら>=30話以降の響鬼に好感が持てる。
……なるほど。白倉氏の創った「後期響鬼」を好む方々も、何にも変わらないんですね。


全ての<わたしたち>がそうだとは言いませんが、少なくとも。
<あいつら>は一生眼にウロコなんだ、<わたしたち>は冷静なんだ……と、他者の解釈を受け入れず、中にはせせら笑うような方々もいるのです。
もちろんその逆も真なり。一部の<あいつら>も、<わたしたち>を不当に侮辱したことはあったでしょう。
まぁ問題なのは、白倉氏の路線改革に拍手した<わたしたち>が、白倉氏の思想自体は実践できてなかった、ってことでしょうが。


さらには、「『仮面ライダー響鬼』の大問題 1追記」(「気分屋な新聞」)という、前期響鬼を大々的に批判する<わたしたち>が、いらっしゃいまして。
あまりにも長いので(←お前が言うな)、反論はご勘弁ください。
問題は、「大問題3」のこの部分にあります。

こういった指摘を重ねると、一部からは「どうしてそんな粗探しばかりするのか、どうして本編を素直に楽しめないんだ?」という意見を耳にするケースが多い。

だが、ここで挙げてきたものは、すべて「普通に見ていれば、意識しなくてもすぐに気付く程度のもの」ばかりであり、わざわざ粗探ししなくても判別可能なものばかりだ。

逆に、これらの問題に最後まで気付かなかったとすれば、それはあまり集中して観ていないという事になるだろう。

つまりこのかたは、「<あいつら>は、あまり集中して観ていない」とおっしゃってるわけです。
<わたしたち>こそ、普通に見ているのだと。
……このかた、後に『カブト』の論評もされてますが。響鬼ほどディープな考察はしたくない、「今年はもう人格否定されたくないし(笑)」と冒頭に書かれてたので、もう読むのやめました(断言)。
確かに<あいつら>は、「お前は素直に見ていない」と境界線を引いたかもしれない。
が、その反論で。<あいつら>という境界線を引いて、お前らは「普通に見て」いない、「意識しなくてもすぐに気づく程度」のことすら気づけないんだ、と人格否定したことに、この筆者はお気づきなのでしょうか? 五十歩百歩と思うのですが。



このように、前期響鬼を否定できるかたがたすら、<わたしたち>という境界線を引いてしまうのです。
他者を「理解」「許容」「評価」することなく、人格を否定し合ってしまう。


人間が、<わたしたち>の呪縛から逃れる日は、いつやって来るのでしょうか?



結論から。
自分の反論から言いましょう。


そんな日は永久に来ません。


来ては、ならないのです。


人間を形作るのは「共同体」です。
「わたしたち」という共同体が、「人間」を造るのです。


「わたしたち」という物差しがあるからこそ、「あいつら」の秩序も認められる。
「わたしたち」を否定しては、「人間」としての個体を維持できない。
だからこそ。
「あいつら」を否定しなくても、境界線を否定せずとも。
「わたしたち」が「わたしたち」でいられる方法を、探すべきではないですか?



……『セイザーX』の安藤家を思い出してください。
未来からやって来た宇宙人とも。敵だったはずの宇宙海賊とも。
最後に分かり合えたのは、主人公安藤拓人の「家族」があってこそでしょう?


一緒に食卓を囲み、納豆ご飯を食べる「家庭」から、安藤拓人という人格が形成された。
「家族」という「わたしたち」なくして、セイザーXは大団円を迎えなかったはず。
そして、安藤家という「わたしたち」は、宇宙海賊デスカルという「あいつら」を否定しなかった。
確かに最初こそ、セイザーXという「わたしたち」に"も"所属する拓人は、一度ためらいながらもデスカルの宇宙戦艦を撃墜した。
でもブレアードが安藤家にやってきてから=<境界線>を越えてから、二人の距離はますます接近した。納豆ご飯という「わたしたち」の文化に触れ、ブレアードもまた「わたしたち」を理解し始めた。*1
安藤家という「わたしたち」があったから、拓人とブレアードは友達になれたのです。
「わたしたち」という境界線があるからこそ、「あいつら」と「理解し・許容し・評価する回路」を、「みずからの中につくりだ」せる。
アドだって、当初は「白い米だけはダメなんだ」と言って現代の文化を拒否するも、やがて山盛りご飯を食べるようになり、ブレアードを「仲間」と呼べるまで成長したんです。


ブレアードたち宇宙海賊デスカルが、「<わたしたち化>されてヒーローとなった」のは、「わたしたち」が「あいつら」を理解し・許容し・評価したからです。
「わたしたち」を全否定し滅ぼそうとしたネオデスカルを裏切って、「あいつら」は「わたしたち」のために戦ってくれたのです。
……きっと、ウルトラマンたちも、そうなんじゃないですか?
<わたしたち>が<あいつら>を否定する偏狭な奴らばかりだったら、わざわざ遥か彼方のM78星雲からやってきて、地球を守ってくれなんてしませんよ。『メビウスウルトラ兄弟』冒頭で、人間として生きていくことを決断なんてしませんよ。
ウルトラマンが地球を守るのは、「人間が好きだから」。ウルトラマンメビウス=ヒビノ・ミライはそう語りました。その「好き」には、時に<あいつら>を排除するなどの過ちを犯し、それでも<あいつら>を分かり合おうと前に進む人間の清濁全部が含まれてる、と信じます。



以上を踏まえて。
以下の、『ゴーマニズム宣言』の主張を読んでみればわかります。
……ほらそこ、「ゴー宣なんて」と境界線を引かないように。自分もゴー宣全ての思想を肯定する気はないですが、認めるべき主張は認めるべきだと思いますよ。


歴史という縦のつながり、共同体という横のつながり。
そんな「公共性」があってこそ、「個人」は形成される。
そう、ずっと主張されている、小林よしのり先生は言います。

わしはそもそも「共同体から切り離された個人」というものの存在を認めない。


「近代的個人」とか「個の確立」という考えそのものが信仰だと思っている。
戦後の進歩的知識人がとり憑かれてきた虚構だと思っている。


個人は関係の綾の中に成り立つ。
従って「共同体」が、個人を安定させるためにどうしても必要である。
それがわしの考え方だ。


(中略)


ごーまんかましてよかですか?


公共性なき「私」、集団性なき「個」など、人格としては不完全なだけである。
共同体を必要とせぬ近代的個の確立という戦後の知識人の寝言は、ついに子供の人格の「オレ様化」に堕したのだ!


(SAPIO増刊・春号『わしズム18号』(小学館)掲載
 小林よしのりゴーマニズム宣言EXTRA』第23章「近代的個人は『オレ様』に堕した」より)

この、わしズム18号での特集「こどもの現実」は、衝撃的でした。
カンニングをした女生徒を教師が注意したら、「これは暗記するために作ったのだ、カンニングするためじゃない。従ってカンニングなんかしてない」と、反論(???)されたり。
授業中、私語をしている生徒を注意しても「横向いて喋ってても授業はちゃんと聞いている、授業の邪魔にはならない程度だからいいだろう」と、言い返されたり。
で、これを怒鳴るなどして威圧的に説教したら、彼らは全人格を否定されたかのように受け取り、キレる。そして、永久に和解できなくなる、のだそうで。
だから、注意する時は「喋っているように見える。一度注意します」と、トラブルを避ける言い方をせねばならないそうです。何のこっちゃ。

子供たちはもはや「共同体的な贈与【愛、恩義】」の中には生きていない。
人と人との関係性を経済的に数値化して捉える「市民社会的な商品交換」の中に生きている。
子供たちは「消費する個」として大人と対等になったのだ。


カンニングをした女生徒は学校側が下すであろう「処分」が、自分がした行為と釣り合わない、つまり「等価交換」にならないと判断したわけである。


私語を注意された生徒は、そもそも他の生徒や教師との間に「共同性」を感じていない。
しゃべりたいからしゃべっているだけで、迷惑という概念がないのだ。


(中略)


昔は、大人は子供を「理不尽」に叱ることもあった。
大人には権威があった。
それも大人が子供に共同体のしきたりを教え込むためだった。


1980年頃から、日本は「共同体的なしきたり」から、「市民社会的な商品交換」の時代に移行し、子供の内面が「消費する個」として自立してしまった。


(同・ゴー宣EXTRA第23章より)

これこそ、小泉・竹中の「新自由主義的経済」のための「個」。
共同体が崩壊したから、自己責任で市場原理主義に参加しやすくなる。そのために、「オレ様化」した子供を大量生産するのだ、と小林氏は主張します。


そう、白倉伸一郎は、特撮界の小泉純一郎だったんだよ!
な、なんだっ(略)


……冗談はともかく。
これが意味するのは一つです。
「わたしたち」という偏狭な共同体を取っ払った結果。
「わたし」という、さらに偏狭な個が出来上がりました、と。


まさに渾沌の世界。渾沌という自分自身を愛する子供たちは、これからもどんどんオレ様化していくことでしょう。
彼らを叱ることは「境界線」を作ることに他なりません。子供たちの渾沌を「渾沌のまま受け入れ、理解し・許容し・評価する」ことこそ大事なのです。
勿論、彼らは自分以外誰も「渾沌のまま受け入れ、理解し・許容し・評価する」ことはないでしょうが。
境界線があろうとなかろうと、<あいつら>を受け入れることなんて不可能だったのです。



再度、白倉氏の著書から引用します。

他人の渾沌は悪で、自分の渾沌は善。いいかえれば、他人の秩序は善で、自分の秩序は悪。
――<わたし>というのは、ずいぶんと身勝手な生き物だ。

ここだけ抜き出せば、全くもって正しい主張です。
オレ様化」した子供に、是非聞かせたい言葉です。
ポイントは。ここで白倉氏が、<わたしたち>ではなく<わたし>と言っていること。
<わたしたち>という共同体ではなく、<わたし>という個人を諌めている。


にも関わらず、

渾沌そのものである世界や他者を、「わたし」という一元的原理によって秩序づけようとするのではなく、渾沌のまま受け入れ、理解し・許容し・評価する回路を、みずからの中につくりださなければならない。
<わたしたち>と<あいつら>をへだてる境界線を、踏み越えることにとどまらず、そんな境界線などはじめから存在しなかったことを認める勇気を、持たなければならない。

と、<わたしたち>という境界線を否定しているわけです。


何故、このような矛盾が発生してしまったのか。
<わたしたち>という共同体が、<わたし>を諌める回路として機能していることを、何故白倉氏は考慮に入れないのでしょうか?


その回路こそ、偏狭な正義を生み出すものと、白倉氏は考えます。
正義なんて感情論、<わたしたち>を維持するためのスキームでしかない、とし。不快に思う<あいつら>を排除することこそ正義の本質、とし。
この二元論こそ、全ての元凶と断じます。
例えば白倉氏は、第3章「世界の境界」にて。

電車もケータイも、わたしたちの世界観を混乱させ、不安にさせる。
車内でケータイを使われるのは、確固たる足場を奪われ、自分がいまどんな世界に属するのか不分明におちいった状態で、目の前で世界に穴がうがたれることである。
日本にはじめて電車が走ったとき、履物を脱いで乗った人がいた――なんていう昔話を、現代のわたしたちは笑い話として受けとめる。けれども、必死の形相でケータイマナーを叫ぶわたしたちに、明治の人たちを笑う資格があるのだろうか。
境界線だの世界観だのという、わたしたち人間の原始的な生理は、さまざまに姿かたちを変えながら、わたしたちの生活を律する支配原理となっている。
そして、「マナー」と呼ばれているこの現象は、実際には「マナー」ではない。鉄道事業者間で「統一マナー」が策定されていているけれども、「統一されるマナー」がどこの世界にあるだろう。東急バスなど一部事業者では「携帯電話に関するルール」と、はっきり<ルール>と明言している。
「なんとなくイヤな感じ」といった生理が、生理であることも意識されず、きちんと検証もされないままに、いつしか社会的な<ルール>として、わたしたちの行動を束縛していくのである。

マナーとかルールとか、支配原理とかは置いといて。
まずはこの「不快」「なんとなくイヤな感じ」という感情が、どこから来るのか検討せねばなりません。


ゴーマニスト小林よしのりが、「ゴーマン」かますとおっしゃってるのは。
そのかまし方が傲慢(かつ面白い)なだけで、考え方まで傲慢なのではないのです。実は。

(前略)


そしてサヨク(=個人主義戦後民主主義)のままでは社会に「ヘンだ!」と思えることが多すぎて
とりあえず自分の感覚の奥底を点検しながらごーまんかますことにした


その「ヘンだ!」と指摘する基準は「公のために」である
「公のために」ヘン
「公にとって」ヘン


「わし個人にとってだけ」ヘンだと言ってるわけじゃない
それだと「あっ そうかい おまえにとってはヘンなのかい」で済まされてしまう


わしの中にある公共性の感覚からいけばヘン
…と言ってるのであり、やはり普遍的な道徳や倫理を探しているのだ


小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(幻冬舎、1998年)
第20章「公と個」より)

子供が教室で暴れれば、<わたしたち>にとってヘンなのです。
電車内で携帯で大声で話されれば、<わたしたち>にとってヘンなのです。
後期響鬼の登場人物がモノを盗んで、それを誰も咎めないのは、少なくとも<わたしたち>日本人にとってヘンなのですよ。
ヘン=不快だと思う感情そのものに、<わたしたち>という公共性が内包されている場合がある。
むしろ、<わたし>という身勝手で独りよがりでない「感情」を錬成するのが、<わたしたち>という「公」=共同体、すなわち境界線なのではないでしょうか?


その境界線、「公」が崩れてきてるから、子供は教室で暴れ、電車で携帯を平気で話したりする。仕方なしに、「統一マナー」や「ルール」で規制した。ってことなのでは。
ああ、桐矢京介が陰陽環を仕返し目的で盗んだのを、ヒビキさんが責めなかったのは「公」が崩れてるからですね。ヒビキさん本人がそうかは分かりませんが。やっぱり規制すべきですかね、誰をとは言いませんが。



白倉氏は「死んでも出せない結論を他人に求め、そうやって満足していく人生って何さ? あなたの結論て何なのよ?」と、おっしゃっています。
ですが。
その「あなたの結論」こそ、白倉氏の否定する「境界線」の中から出来上がる。
そう自分は考えます。小林先生の考えを支持します。


それとも、<わたし>が境界線の中から考えていては、やがて<あいつら>を排除するようになるのでしょうか?
それこそ短絡的で、平凡な結論です。
何故なら、<わたしたち>とは、決してひとつでないからです。


境界線、「公」と言っても色々あります。
まず、「歴史」という縦軸で紡がれた「公」。共同体の最小単位である「家族」も、父母それぞれの「親戚」とつながっていく。
一方、「社会」という横軸で構成さる「公」。子供が通う社会たる「学校」の中でも、クラスや班、部活動などがある。大人になれば、「会社」などの仕事先がある。
それらたくさんの境界線の中で、個人は形成されています。


……『セイザーX』としての安藤拓人は、宇宙の未来を守るため、一度は容赦なく宇宙海賊デスカルの戦艦を墜とした。でも「安藤拓人」という個人としては、「ブレアードを宇宙に放り投げる」という妥協案を提示した。何故か?
彼がためらったのは、模範的日本家庭の「安藤家」の暖かさを知っていたから、ですよ。祖父と父のように、分かり合いたいと思ったからですよ。その「公」と、正義のヒーローとしての「公」がせめぎ合ったんです。
そして最後には、セイザーXもデスカルも。皆「家族」という「公」を選択したわけですが。


<わたし>は、たくさんの<わたしたち>の中で生きています。
勿論、その複数の<わたしたち>が、互いに<あいつら>と呼び合って衝突することもある。その折り合いをつけながら、何とか生きていく。
それが<わたしたち>人間でしょう。


そして、公の最大範囲は「国」でよい、だから国ごとの公共性は認めよう、というのがゴー宣の主張です。
すなわち、<わたしたち>と<あいつら>は違う公共性を持っている。その境界線を認めた上で、<わたしたち>の公共性を<あいつら>に押し付けないようにしよう、と。
……何だ、別に境界線をなかったことにしなくても、白倉氏の理想は実現できるじゃないですか。
<わたしたち>の公共性を守り、かつ、<あいつら>の公共性をも認める。それが理想。


そして、折り合いがつかず、どうにもならない時――
《変身》して、境界線を越えていく。
公共性から形成された個人の力で、公共性を超越し、全ての公共性を守る。
それが「ヒーロー」の「正義」ですよ。


白倉氏は著書内で、<わたしたち>の悪例として、ナチスユダヤ人虐殺を例に挙げていました。

一般にスケープゴートが求められたり、容認されたりしやすい社会状況は、世界観が混乱したときに生まれる。
ケネディ大統領やキング牧師が暗殺されたのは、ベトナム戦争中のことだ。当時のアメリカは、共産主義と対立する二極構造の世界観の中にいた。その美しい世界像に混乱をもたらした、内なる異分子が彼らである。
わたしたちは、「わたしたち」と「あいつら」の二元的世界像を混乱させる第三のファクターに憎しみの目を向け、あるいはそのファクターを敵とする二元論で世界像を再構築しようとする。
そうした人間心理を利用するのは、古代国家以来のお家芸ともいうべき為政者のDNAといえる。内憂に苦しめられている状況では外患をつくりだし、あるいは外患から内憂に問題をすりかえて大衆を手玉に取る。
わたしたちの心は、単純きわまるしろものである。
怪人を両義的であるがゆえに<悪>とみなす心性。
ヒーローものという物語を、「正義と悪」の対立構図としてだけ受け取ろうとする心性。
そうしたわたしたちの心性はすべて、ナチスにいいようにあやつられて、極端な迫害行為に走ってしまった、悲しいドイツ民衆となんら変わらない。

さて、この悲劇を取り上げる際に。
日本人なら、知っておかねばならない偉人がいます。
「日本のシンドラー」と呼ばれた、杉原千畝(すぎはら ちうね)。
彼は、外務省=日本という<わたしたち>を超え。ナチスから逃れようとした数千余りのユダヤ人=<あいつら>に、ビザを発給しました。
もっとも、これだけなら<わたしたち>批判で、評価は事足ります。
が、彼は何と言ってビザを発給したか。

杉原「世界はアメリカを文明国という」


杉原「私は世界に日本がもっと文明国だということを知らせましょう!」


最近のマスコミが流す杉原千畝像は
まるで杉原が日本国に逆らってユダヤ人を救出した個人主義者であったかの様に
ウソの宣伝をしている
しかし杉原は本物の外交官である
このとき杉原は国をしょって立ったのだ!


(中略)


杉原千畝がリトアナからヴィザ発給の許可を日本政府に求めた時
外務省の返事は形式だけの官僚答弁である
それ以上でもそれ以下でもない


そこをうまく抜け道を工夫してヴィザを発給したのは
杉原の機転の利かせ方の素晴らしさであろう
「公」を含みこんだ「個」の力の見事さである


だが 杉原がユダヤ人を出国させただけでは
まだ善意は完成されていない


杉原と同じような情と機転を持つ人々が
次々と善意のリレーをしていかなければ
ユダヤ人が日本に入り上海に逃げることはできなかったのである
ユダヤ人の話によれば当時 日本出国の際
出入国の管理官も 通関担当官も 警察官も ものすごく寛大で
杉原が書いたいいかげんなヴィザや 時には
偽造ヴィザまでOKにしていたらしい


日本政府や軍の中で 親ユダヤの者や反ユダヤの者が議論していたとしても
結果として日本政府は現場の判断に目をつぶって許容した


それは松岡洋右にしろ五相会議の要項にしろ
国家の原則としてのユダヤ人への許容度の高さが
一外交官 一軍人 一国民に至るまで
ユダヤ人救出で善意の合意を図っていたと言える
アメリカにはそれがなかったのだ


小林よしのり『新ゴーマニズム宣言』第117章「ユダヤ人救出に完全無欠の善意はいらない」より)

日本という郷土で形成された個人の力で、国すらも超え、世界の人々を守った先人たちがいるのです。
戦争という<わたしたち>と<あいつら>の戦いの最中、第三者であるユダヤ人は、日本人という庶民の力によって守られたということです。
「どんなに歴史をさかのぼったところで、正義なんてものはどこにも見つからない。」
「巷間『正義の不在』なんていうけれど、昨日今日いきなり不在になったわけではなく、はるか昔から正義は不在だったのだ。」
……白倉伸一郎さん。そんな言葉は、当時の日本人の偉業をかみ締めてから、口に出して下さい。


勿論、誰もがそんな偉業を達成できるはずがない。
でも、超星神シリーズの《セイザータウロン》松坂直人が、言ってたじゃないですか。
「迷った時こそ、一歩前に出る勇気を持て」って。
「ほんの少しの勇気があれば、誰だってヒーローになれる」って。
ほんの少しの勇気で、境界線を一歩前に踏み出せば、誰だって最高のヒーローになれるんですよ。
でも、踏み出すべき境界線がなきゃ、守るべき境界線がなきゃ、何にも始まりませんよね?



以上。
へっぽこゴー宣ファンの、反論終わり。



……随分書いたので、ここで終わらせたいんですけどね。



そうはいかなそうです。
思想についてもドシロウトな、たかだかゴー宣ファンなだけの自分には理解できない落とし穴があるかもしれない。
白倉氏の定義する<わたしたち>が、ゴー宣の言う「公共性」と一致しないという可能性もある。
時代が変遷して、<わたしたち>という共同体が更に偏狭になり、形骸化し、否定せねばならないところまできたのかもしれない。


異論は、まだまだあります。
ならば、もう少し、白倉氏の見解について考える必要がありそうです。



PS 実は白倉氏、『仮面ライダー龍騎 ファンタスティックコレクション』(朝日ソノラマ)に寄稿された、『二元論の崩壊』という論文で。
「物語」否定という、またもやゴー宣と正反対の論を展開しています。
物語は二元論と同様に現実を侵食し、世界を歪んで捉えさせる罠であり、<わたしたち>と<あいつら>を衝突させるスキームとおっしゃっています。
これについても考察したいんですが、いかんせん長いし。『ヒーローと正義』内でそれ程掘り下げられてなかったんで、略。こっちを掘り下げた考察も、期待して購入したんですけどね。
物語=歴史であり、<わたしたち>という共同体を形成するスキームということで、結局は境界線批判に連なるものだと思うのでー

*1:ちなみに白倉氏は本著で、「ヒーローものの両義性は、庭なのである」とおっしゃてまして。人間VS自然という二元論を否定するために、<庭>という自然を模した両義的な空間を設けた、と分析されてます。そう、安藤家におけるブレアードたちの定位置こそ、まさに<庭>! ここは素直に感心しました。うひゃあ。