何故馳川HTBは子供番組を視聴するのか

……とまぁ、ツイッターで↑のようなことがありまして。
ここらで自分の、子供番組の視聴の仕方を確認してみようと思い立ち。
酔っ払った勢いで、久々に長文をこしらえてしまいました(笑)。


クソ長いので、お時間がとても空いた時に、気が向いたらお付き合いください。
要約するなら、「子供番組への批判や議論も、外に目線を向ける立派な機会ですよ! もっと意見言い合いましょうよ!」って感じですかね……
あとは「何で子供番組見る時まで外向かなきゃならないのですか?」という疑問に対する、自分なりの回答というか。


ではでは、万一興味が湧いたら、お読みくださいませ。


そもそも、自分がいわゆるニチアサ――子供番組にハマったのは。
おジャ魔女どれみ』って作品からでして。
そのスタッフさんが、「理不尽な目に遭ってもキレない、我慢できる子供の姿を描こう」、「子供を見守る立派な大人たちもいるということを示そう」という作品の方針を、とあるムック等のインタビューで答えていて。
その言葉に感銘を受け、実際に作品を見てみたら……完璧とはいかずとも、その目指した世界観がきちんと描かれていることに感動したからなんですね。
児童をきちんと「叱る」ことができる担任教師、子供の成長を見守れる両親たち。無論、その枠から外れた大人もいましたが、逆に成長した子供にやり返され改心する、なんて展開もありました。


勿論ただ大人の理想を押し付ける説教臭い話ばかりではなく、見ていて玩具が欲しくなるような工夫もされていたそうです。玩具から作品と同じ音楽が流れ、可能な限り同じギミックを持っていて「なりきり遊び」がし易い等々。
おジャ魔女が放送された1999〜2003年は、丁度「キレる子供」がクローズアップされた頃でした。当然マスコミの過剰報道もあったでしょう、でもデータでは見えないところで、学級崩壊に立ち向かったり心折れたりする現実が、確かにありました。「子供の犯罪率は増えていない=キレる子供なんていない」、なんて馬鹿な公式は成り立たないのです。


だからこそ、こういう子供番組が必要とされるのでは?
そう思い、自分はニチアサの世界に足を踏み入れたのです。




特撮関係にハマったのは、その後でした。
リアルタイムでは見ていないものの、『仮面ライダー龍騎』は賛否を巻き起こす大転換を産んだ、記念碑的作品だと自分は考えます。正義は一辺倒ではない、人それぞれに正義はある。それを仮面ライダーという作品で描いたことに意味があるのでしょう。
まぁ翌年の『555』はやり過ぎた面もありますけどね、でも理屈や理想抜きで草加雅人に愛着を持ってしまえるところも、また面白いところです(笑)。
ウルトラマンマックス』や『メビウス』でウルトラシリーズにも触れ始めました。つまみ食いとはいえレンタルをしまくり、初代『ウルトラマン』が「怪獣墓場」の回で、地球の平和のためにやむなく戦ったのだと怪獣に謝るという、元祖とも呼べるヒーローが勧善懲悪を否定していたという事実に、胸が震えました。




とにかく子供に向け、子供の将来のため、真摯に作品を作る姿。
それをもっと観たいと思い、後世に伝えたいと考え、もっと広めたいと決意し。
こういう面倒くさい考えを持った人間が、十何年もニチアサにへばりついているのです(笑)。




さて。
この観点からニチアサを見ていた自分は、やがて『ふたりはプリキュア』という作品に出会うことになります。
衝撃でした。
何せ、敵側のドラマに主人公が一切関知しない。いや、キリヤという例外がいましたが、結局はフェードアウトし、翌年の続編(および映画プリキュアオールスターズ)では思い出されることもありませんでした。
普通の女の子とされる主人公たちが、妖精の世界と自分の世界を守るため、正体不明の敵と戦う。幹部を消し去っても、「闇に帰っただけ」と説明されるのみ。キリヤの姉が敗れた時、キリヤは「自分は生きる」と言っていたのだから、当然姉たるポイズニーは「殺された」と解釈するのが自然なのですが、そういう回顧は一切無し。
闇側にも生きる理由がある。3クール目では、敵ボスたるジャアクキングに「生きるために」反旗を翻す、新たな敵幹部も現れました。
が、その事実も全く関知せず。ただただ、邪魔をするなとばかりに新たな敵も倒すだけ。
「とっととお家に帰りなさい」と言いながら、「闇に帰す」=「殺す」行為をし続け、その自覚さえない、何をさせられているのか分からない主人公&妖精たち……背筋が凍る思いです。


いつ襲ってくるか分からない=いつでも襲ってくる敵に恐怖し、理解不能で唐突な理屈に無難な回答しか出せず、とにかく敵を排除することだけ考える。友達である妖精たちと、自分たちの世界を守りたいから。
この構図は、自分に「9・11」の自動多発テロを想起させました。何故テロを受けたか理解できない米国がその恐怖のあまり、ただただ自国を守るためにテロリストを民主主義の敵、悪と断定して制裁を加えるという……
プリキュア初代SDさんは、「プリキュアはヒーローじゃない、正義じゃない」と仰っていた記憶があります。でも、本当にそうだったら、「掛け替えのない日常を守りたい」のは敵側も一緒なのでは? というドラマを作れたのではないか、と思うのです。
しかし結局、続編の『MaxHeart』では誰一人敵幹部と心通わせることなく戦い、いや「本人たちの自覚なき戦争」を終えたのです。「唯一の例外」でたるキリヤは、いわゆる「黒歴史」化されたかのようです。
それが、初代プリキュアの背負わされた「業」だと、自分は考えます。
だからこそ、映画プリキュアオールスターズで、ロクに敵幹部が再登場しなかったのだと。初代&MHの敵組織との関わりは、以後のシリーズからみれば余りにも異質だから。


……その後、『Splash☆Star』では霧生満&薫、『5』&『5GoGo!』ではダークドリームやブンビーさんと、心通わせ助けてくれる敵方が登場し。
プロデューサーの変わった『フレッシュプリキュア!』以降では、敵幹部ですら改心してやり直せる、正規のプリキュアにすらなれる。敵側ときちんと対話し、説得できるという可能性を提示したのです。
こういうのが観たかった!
何故日常を守らねばならないかを自分で理解し、自らの意志で人々を守る決意をし、プリキュアとなる。
イース」=「東せつな」=「キュアパッション」もまた、プリキュアシリーズの大転換を産んだ、記念碑的存在ではないでしょうか。
その精一杯頑張る姿こそ、子供たちに見せるべき人物像であり、物語でしょう。




この「相手と腹を割って対話する、きちんと話し合う」ということが、平成ライダーシリーズではずっと欠けていました。
とにかくライダーの数だけ揃えて、適当な理由をでっち上げ、相手の話を一切聞かずに戦い合うだけの「悪しきライダーバトル」。そこには『龍騎』時代のような、「それぞれの正義」なんてありゃしませんでした。造り手の都合や勝手な思想で戦わされるだけの玩具扱いです。
その前提には、あたかも昼ドラのように、人間関係をギスギスさせ戦いに駆り立てさせるような「同調圧力」があった、それを意図的に造っていたと、自分は考えます。
それは『ダブル』以降の平成ライダーシリーズ2期から、徐々に消え失せていったのですが……『レッツゴー仮面ライダー』から始まるライダー春映画では毎年繰り返され、『スーパーヒーロー大戦』シリーズでは関係のないスーパー戦隊宇宙刑事まで巻き込み、「悪しきライダーバトル」を続けさせられているのです。
妙な理屈でキャラを改悪し、命を命とも思わず簡単にキャラを殺し続ける。血を吐きながら続ける悲しいマラソンより酷い有様です。
――あ、今春の『仮面ライダー1号』はどうなるかまだ分かりませんが。




話を、自分の思想、理想に戻します。
何故自分は、子供に向け、子供の将来のため、真摯に作品を作る姿を見たいか。
そんな作品を、後世に伝えたいと考え、もっと広めたいと決意したか。
それは、「物語」の力を信じているからです。


かつて爆笑問題太田光氏は、エッセイでこう書いていました。
大学時代、ある宗教系のサークルにからかい半分で参加したことについて。

私は其処に毎日のように通った。入会金も会費も一切払わずに。彼等は行く度に金を催促してきたが私は断った。「俺は此処に、ただ単に話をする為に来ているのであって、話をしただけで金を払う必要はない」と。すると、彼等は変な洗脳ビデオみたいなものを見せ、その視聴料を払えと言ってきた。内容は、ハルマゲドンだの、輪廻だの。何の説得力もなく、こんなモノで簡単に洗脳されてしまう人の気持ちが解らなかった。
余談だが、ああいった何の工夫もない創りのビデオを観て影響を受けてしまう人というのは、それまでろくな映画にも小説にも出会ってないんじゃないだろうか。良い映画、良い小説を知っていれば、決してあんな安い洗脳ビデオに感動するハズがない。

1995年、オウム真理教事件当時。
何故エリート大学を出た生徒たちが、簡単に洗脳されてしまったのか。
その答えが、ここにはあると思うのです。


良質な「物語」に接していれば、それは人生の糧となり、道標となる。
だからこそ、大人たちは良質な「物語」を生産し、子供に見せなければならない。
勧善懲悪でもいい。それを否定する物語でもいい。
様々な価値観を持ち、様々な意見を持てる。そんな「物語」に接して育ってきたのならば、安い宗教ビデオなどに簡単に騙されるハズがない。
そう、自分は考えているのです。




しかし、『スーパーヒーロー大戦』を見返し、どう思います?
海賊戦隊ゴーカイジャー』が1年間積み上げてきたキャラクターを改悪、破壊し。無意味に(ライダーバトルに何の関係もないスーパー戦隊まで巻き込んで)潰し合いを長々と垂れ流し。ただ200何人のヒーローのスーツを被っただけの人を集め並べ。ほんの一瞬で、人々が観たかったはずのライダーと戦隊同士の共闘を終わらせる。
こういう酷い「作品」を見て、それが当たり前だと考えた子供が育ったら、どうなるでしょうか?
キャラクターは作り手の都合で簡単に改変されるものだし、売上のためなら無意味な殺し合いをしてもいい。
そんな「資本原理主義」に染まった作品だらけになってしまったら、どうなるでしょうか?


別に、「安い宗教ビデオ」だけに限った話ではありません。
メディア・リテラシーが叫ばれ続け既に死語になりつつある現在、真実を見極める目を養うために、「物語」の力が今こそ必要なはず。
しかし、良質な「物語」を与えられず育った大人が、真実を見極めることができるでしょうか?
怪しい宗教団体、怪しい政治団体に、簡単に感銘を受け簡単に参加してしまうのではないでしょうか?
その危険性を、どれだけ認識していますか?




テレビブロス2月27日号の『おそ松さん』特集の、「おそ松公論」にて。
兵庫教育大学大学院学校教育研究家助教・博士(人間科学)の永田夏来氏は、6つ子たちの設定は「雇用が流動化して定職につけず、主に自宅で過ごし、未婚化晩婚化のただなかにいる私たちの見事な鏡」であるとし、そこからこう持論を展開されています。

社会学者の土井隆義は、今年の大学入試センター試験にも出題された『キャラ化する/される子ども*1たち』において、モノの考え方が異なるグループとの交流を避け、摩擦の少ないコミュニケーションを指向する若者について論じている。家族や気心の知れた友人を優先できる人間関係を構築すること、つまり閉鎖・内輪化は「ありのままの自分」を受け入れてもらいながら「絆」を維持するための現代社会の処方箋であるように思われる。

しかし『おそ松さん』は、斯様な「安住の地」を求めるのではなく、そこがスタートとなっているのだと分析。

しかしその「キャラ」が、外部に接続して世界を広げていくのではなく、内部のつながりを円滑にするという同調圧力強化の機能を果たしている点にこそ注目しておきたいのだ。
(中略)
彼等は6つ子の世界である「6つ子界」の中にいて、そこでだけ通じる文脈でコミュニケーションをおこない、兄弟の間で支配/非支配を競っているのだ。本作では主人公らの日常生活を描いた本編の他にも、イケメンキャラ化した6つ子による『F6』、女体化した6つ子による『じょし松さん』などいくつかのパラレルワールドが描かれている。しかしいずれの世界にも「6つ子界」が存在していて、その閉鎖性と内輪性が形を変えて示されるのだ。そしていずれのパラレルワールドにおいても「6つ子界」の常識が一般的な社会常識とはズレている点に『おそ松さん』のもうひとつの鋭さがあり、身内に馴染むほどに外部との接続が遠のくというアンビバレントな構造が物語全体を通して提示されているのである。そのギャップが激しいほどにギャグとしては笑えるのだが、同時に空恐ろしくなってくるのが本作の深みのひとつであるように思われる。

そして今作は、こうした閉鎖的な「6つ子界」から「いち抜け」できるか否かを問いかけていると論を進められています。
僭越ながら自分がまとめるなら、それは「6つ子界」からの離脱=一般常識人化と、外からの包囲=閉鎖・内輪性の対立です。

「6つ子界」の常識と一般的な社会常識のギャップは、ただ笑えるだけでなく視聴者が持つ常識や当たり前を再考させるような問いを投げかけているようにもみえるのだ。
(中略)
「ありのままの自分」を受け入れてもらいながら「絆」を維持するための閉鎖・内輪化は、女子会のために志向されたものでは本来なかったはずだ。しかし現実の社会を見回してみると、女子会に象徴されるような閉鎖・内輪化に安住して外部との接続を見失っている者は男女問わず多いようにも思えてくる。私たちはどのように振舞えばそこから脱却できるのだろうか。『おそ松さん』の「6つ子界」の行方が、これからの行動のヒントを与えてくれるのではないかと期待している。

深く考えなくていいから! ただのギャグアニメ(自己責任アニメ?)だから! と、スタッフさんや声優さんがいくら唱えても、こういった社会的分析からは逃れられない。それが、一度社会に晒された「作品」「物語」の宿命です。
だからこそ自分は面白いと思うのですが、それは別問題ですね。




外部との接続を拒否し、自分に都合のいい感想だけを耳に入れ、ぬるま湯に漬かって作品を楽しむ。それはそれで、一つの作品の楽しみ方です。
ですが、それが「子供番組」なら、話はちょっと変わってくるのです。
「ヒーロー番組は教育番組」、かの宮内洋氏の言葉です。
自分はこの言葉を全面的に賛成するつもりはありません。ですが、未熟な子供に見せる作品である以上、それを意識せずに創ることはできないと考えます。
色々な価値観を与え、考える力を養い、思考を外に向ける方法を模索する。
子供に向けた「物語」には、この使命から逃れられない宿命を背負っているのではないでしょうか。
当然、ただ楽しい痛快な作品もあっていい。けれど、そればかりではいけないという話なのです。砂糖菓子だけを食べては栄養に良くないし、お腹を壊すんです。
それを忘れ、子供からお金を搾取することだけを考える資本原理主義的な番組だらけになったら。そして大人である我々が、「砂糖菓子でいいじゃん」と、それを許容したら。
子供たちは閉鎖・内輪化に安住して外部との接続方法を知らぬまま成長し、ある者は騙され、ある者は壊れていくでしょう。
だって、我々大人が「外部との接続方法を模索する」ことを諦めてるんですから。


だから、あらゆる現象に「議論」は必要なんです。
だから、あらゆる作品は「批判」から逃れられないんです。
あらゆるものが外部と接続している以上、異なる価値観同士がぶつかり合うのは必然なんですから。
安住の地を求めんと同調圧力を強め、「考える」ことを放棄してしまっては、子供に示しが付かないんです。いや、一人の人間として成り立ち得ないんです。




もし、この長たらしい文章に付き合ってくださったのなら。
ほんの少しでいいから、「考え」を広げてみませんか?
同調圧力に屈することなく、「議論」をしてみませんか?
「批判」が痛いのは誰も彼も自分も同じです、でも「違う価値観」を受け入れることこそ、「外部との接続方法」の一つになるのではありませんか?


そこから逃げないために。
子供の一人も居ない自分には、子供を盾にすることはできないから。
自分自身が「外部との接続」が必要だと考え、望み、行動し発言する。
それが、馳川HTBとか名乗ってる人間の、子供番組への視聴のスタンスです。
かく言う自分もまた、同調圧力のない自由な議論のできる「閉鎖・内輪化」した「安住の地」を求めているのではないか? という疑問を、常に胸に秘めながら。




長文乱文失礼いたしました。

*1:原文ママ。「子供」が正しい日本語です!